2020年6月29日月曜日

「はし本」「煉瓦亭」 味覚の話


「あの店の焼き鳥は絶品」「あそこ以外ではカツ丼は食わない」等々、味の好みは人それぞれである。味覚なんて気分で決まる要素が強いから正解はない。

私だって中学生の頃、野球部の夏練習の後,、グタグタに汗をかいた後に飲んだファンタグレープの味は今でも世界一だと思うし、同じ頃、初めての海外(グアム)で飲んだマウンテンデューの衝撃的なウマさも鮮明に覚えている。



日本での発売は1981年からだったそうだ。その23年前のことだから、まさに未知の飲み物だった。得体の知れないウマさに「アメリカってスゲー!」と妙に興奮した覚えがある。画像はネットで拾いました。スイマセン。

結局、環境や雰囲気、置かれた状況が味覚を大きく左右するわけだ。

先日、初めて訪ねた東京駅に近い老舗ウナギ屋「はし本」でガツガツとウナギを食べた。何が良かったといえば店の雰囲気だ。

八重洲のガヤガヤしたエリアだ。昭和の頃にタイムスリップしたかのような古い建物にシビれた。まさに“東京料理”を楽しむにはもってこいの雰囲気。

働いているオバチャン達の感じも、昔ながらのウナギ屋さんのイメージそのもの。モダンとかお洒落とかとは無縁の世界だ。



その昔のバブルの頃、やたらと気取ったカフェバーが街に溢れ、シャレオツなイタリアンや怪しげなエスニックレストランも全盛で、そんな流れに乗っかることが若者の基本みたいになっていた。。

高校生の頃にはハヤリモノやオシャレなことを追っかけていた私だったが、世の中が浮かれ始めたその頃になるとアマノジャク精神が頭をもたげてきた。

世の中の最先端とやらを気にかけることが急に小っ恥ずしくなってしまい、渋さや伝統みたいな世界に魅力を感じるようになった。ワンレンボディコンのオネエサンとのデートでもあえて浅草に行ったりした。

マルベル堂でモノクロのブロマイドを眺め、天ぷらの中勢やウナギの前川、ビーフシチューのフジキッチンや怪しげな釜飯屋あたりで「これがホントの東京だぜ」などと得意になって語っていた。

そんな偏った感覚の私にとって「はし本」の風情はドンピシャだった。正直に言えば、ここより個人的にウマいと感じるウナギ屋さんはいくつも知っている。それはそれである。

細かいことを言い出せばキリがないのだが、あの風情の中で、ウナギの香りを嗅ぎながら過ごす時間は妙に心地よかった。



白焼きのミニ串は蒸していない直焼で、鰻重の蒲焼きもあえて蒸しは弱めに作っているように感じた。これはこれでアリだが、私の好みではない。

でも、うざくやヒレ焼きや肴に冷酒をカピカピ飲んでいると「正しい日本の夏」を感じられて大満足だった。

別な日、有楽町で所用を済ませてふらふら歩いていたらハヤシライスが無性に食べたくなった。近くに洋食の老舗「煉瓦亭」があったので迷わず直行。

いわゆるニッポンの洋食が大好きなことや煉瓦亭の話はこのブログでも何度も書いてきた。

こちらも正直にいえば、もっとウマい洋食屋はいくつも知っている。でも、時折どうしてもこの店に入りたくなる。

気分の問題が大きい。何年前かは忘れてしまったが、初めてこの店を訪ねた時の印象が今も鮮明に残っているからだろう。

「古き良き東京の洋食屋」というイメージそのものだったことに感激した。杉並区出身という中途半端?な私である。“銀座のハイカラ”には無条件で魅力を感じてしまう。



必ず注文するのがコキールだ。この店の特徴といえばタマネギだ。ざく切りの加減が大きい。違和感と呼べるぐらいのサイズだ。

でも私はこれが好きだ。目隠しされて食べ比べてもこの店の料理だと分かる。見方によっては雑なようにも思うが、きっと何らかのポリシーがあるのだろう。

ざく切りタマネギがウマさを引き立てるチキンライスやハムライスも捨てがたいのだが、この日の気分はハヤシライスである。やはりタマネギはデカい。



実に濃い味付けだ。苦く感じる一歩手前と言ってもいい。西洋料理を白ご飯に合わせるためにアレンジしたのがニッポンの洋食の定義だとしたら、まさにその通りの味だ。

店の雰囲気も私が大好きな「タイムスリップ系」である。銀座の一等地でウン十年前そのままの調度品に囲まれて過ごすことこそがこの店の醍醐味だと思う。

雰囲気と気分。味はこれで決まる。私の個人的な思い入れで書いているわけだから、人様に押しつけられる話ではない。

人によっては今日ここに書いた2軒とも美味しくないと感じる人もいるだろうし、逆にここでしか食べないというファンもいるだろう。それでいいのだと思う。

店を出て腹ごなしに歩いていたら15分もかからず帰宅できた。杉並区に暮らしていた20代の頃はやたらと遠く感じた煉瓦亭が今は徒歩圏だと改めて気付いて妙に嬉しい気分になった。

こんな喜びも味の感想を左右する。そんなもんだろう。

2020年6月26日金曜日

スイカジュースとコンビニ飯の進化




スイカジュースが好きだ。職場の近くのプロントの喫煙テラス席でしょっちゅう飲んでいる。

夏の定番であるスイカだが、ジュースで飲むパターンが普及したのは、割と最近になってからだと思う。

海外、とくに東南アジアのリゾート地では昔からスイカジュースはごく一般的だ。その昔、マメに潜水旅行に出かけていた頃は毎日毎日グビグビ飲んでいた。

朝にスイカジュース、昼にスイカジュース、夜だってスイカジュースをベースにしたカクテルを飲んでいた。

10年ぐらい前までは、ピスタチオのアイスクリームとともに日本で普及していないのが不思議で仕方なかった覚えがある。

5年ぐらい前から徐々に普及したとはいえ、日本ではスイカジュースをスーパーやコンビニで見かけることは滅多に無い。まだまだマイナーだ。



これは市販のスイカジュース。確かタイの商品だ。割と入手しやすいのでウチにも常備してあるのだが、正直に言うとビミョーな味だ。人によってはマズいと判断しちゃう味である。

でも私は買ってしまう。時々はゴクゴク飲む。市販のスイカジュース自体がマイナーな存在なので、スイカジュースラバーとして酷評するわけにはいかない。

毎年夏になるとウマいスイカジュースを探したくなるのだが、秋が近づく頃には一気に興味を失う。実に不思議だ。

今年こそは抜群に美味しい市販のスイカジュースにたどり着きたいので、ご存じの方はゼヒ教えてください。

さて話は変わる。

セブンイレブンの弁当コーナーで妙な存在感を放っているのがラーメンだ。ちょっと大きめな容器のアレである。



平たく言えば作り置きのラーメンである。美味しいはずがない。そう考えるのが普通だろう。

でも陳列棚で何となく自信満々に佇んでいる姿が以前から気になっていた。値段も500円以上だからイッパシである。

ある日、酔っ払った帰り道にコンビニに立ち寄り、つい「美味しくないはずのラーメン」を買ってしまった。

レンジでチンするだけである。それも5分とか6分とか妙に長い時間を要する。

作り置きの麺をそんなにチンしちゃったらデロデロになって食えたもんじゃない。普通はそう思う。

で、食べてみた。なんだかウマい。ちゃんと美味しい。キツネにつままれるってこういう感覚かと思うぐらい麺がしっかりしていて驚いた。実に不思議だ。まさに謎だ。

コンビニメシの進化は日本の技術力の象徴かもしれない。昭和の人間からするとビックリ仰天の世界だ。



友人と飲んだ際に、セブンイレブンのラーメンに驚いた話を得意になって披露していたら、同じくセブンの冷凍カップピラフを勧められた。

やはり、今の時代、50を過ぎたオッサンだろうとコンビニ飯の躍進をしっかりチェックしているようだ。

で、飲んだ帰り道に早速セブンに寄る。冷凍コーナーにあったカップのチャーハンとピラフを買う。

冷凍のコメものは皿に移してチンするという固定観念があったが、カップラーメンのように器いらずという点が素晴らしい。単純な私はそれだけで感動する。



イマドキの冷凍食品は単純に美味しい。このピラフもクドさのない優しい味わいだった。間違いなくお弁当コーナーに置いてあるベチャッとしたピラフより3段階ぐらい上のレベルだ。

10年前、20年前を思い出せば、コンビニ飯や冷凍食品がここまで美味しくなるとは考えもしなかった。

そう考えると、10年後、20年後はいったいどんなレベルになっているのだろうか。想像するだけで楽しい。

2020年6月24日水曜日

パパ活?の日々


親バカ全開の日々が続いている。この春、大学に入った娘がようやく一人暮らしを始めたので、アレコレと世話を焼いている。

コロナのせいで引っ越し計画が大幅に遅れ、スポンサーである私にとっては大打撃だった。3ヶ月以上もムダに家賃と管理費を払い続けてきた。

娘が入居しなくても、私がセカンドハウスとして怪しい使い方でもしていれば元は取れたのだが、女子学生専用マンションだからそれも無理。勝手に入ることすら出来ない。

大学はまだリモートでの講義が続いているようだが、キリがないので6月の半ばに引っ越しさせることになった。

まもなく19歳になる娘にとって初の一人暮らしである。本人は淡々としているのに父親の私がやたらと感慨に浸っている。



こんな小さかったのに、いっぱしの顔で自炊とかを始めるわけだから感無量だ。娘と私は一緒に暮らしていたわけではない。私の元から巣立つわけではないのに引っ越しを機に私がウルウルするのはバカみたいである。

引っ越し当日から不便なく暮らせるように必要なものをバンバン送り届けた。かゆいところに手が届く大サービスである。



電子レンジ、掃除機、テレビといった普通に思い付くものはもちろん、バスマット、風呂用のイスや防かび燻煙剤などあれこれと揃えた。大サービスである。

男の子だったら、あえて不便さを感じさせて親の有り難さを思い知らせようと企んだかも知れないが、そこは愛する娘である。甘甘父ちゃんとしてハッスルしてしまった。

甘やかすことは絶対に良くない。分かっているのに甘やかすわけだから、ひどい話ではある。私にとって一種の自己満足なんだろう。

まさにパパ活?である。

でも、娘がこの先の人生で引っ越すたびに、今回の引っ越しにおける涙ぐましい父親のサポートを思い出してくれるなら本望である。

引っ越しから2日後ぐらいには、ネットスーパーで必要になりそうなものをドバドバ送りつけた。

青汁や野菜ジュースといったヘルシー系からハーゲンダッツや高級レトルトなど、ここでも甘甘父ちゃんの大いなるお節介が炸裂である。



調味料がやたらと増えすぎたようで、娘にとってはありがた迷惑だったみたいだ。そうはいっても、連日、自炊の成果を画像とともにLINEで送ってきてくれるから、今後もスーパー過保護パパとして頑張ろうと思う。

娘の引っ越しによって、母親と二人きりの生活になった息子へのフォローも一応考えないといけない。

ダウン症の息子は理解力が普通よりは劣る。仲が良かった姉がいなくなったことでさすがに寂しさもあるようだ。

で、先週末は元家族で箱根まで小旅行に出かけた。ダウンちゃん大喜びである。姉とじゃれる一方で、私ともチン毛やすね毛の引っ張り合いバトルに励んでいた。



中学生のウチのダウンちゃんもいずれは施設をベースに暮らす方向で考えている。彼にも自立の日はやってくるわけだ。

その際も、甘甘父ちゃんとしてあれこれサポートしてやらないと不公平だから、余力を残しておかないといけない。

シングルライフを謳歌しているつもりの私だが、人並みかそれ以上に子供に絡んだ時間を過ごしている。これはこれで幸せなことだ。

こういう時間をしっかりと味わっておけば、いつの日か淋しく孤独死を迎えることになっても納得できそうな気がする。





2020年6月22日月曜日

酸素 ウナギ 吉野鮨


元通りの日常に近づいている日々だが、油断しないように毎日しっかりパルスオキシメーターで酸素飽和度を計っている。



馴染みの医師から半ば押しつけられた高級品だ。とはいえ、もし異常値が出たところでどうしようもないので、ひたすら無事を祈るばかりだ。

日常に戻ることは、私にとって食生活のコストが上がってしまうことを意味する。

先日、カニをしこたま食べた次の日にはウナギを、その翌日には寿司をバクバク食べた。

自粛期間中にだいぶ改善した私のフトコロ事情もアッという間に悪化の兆しである。

ウナギは中央区内某所にある初訪問の店。ネット上でかなり評判が高かったので出かけてみた。





お通しやチョロッとしたツマミがとても美味しかったからウナギの味にも期待大である。

お通しがウマい店に外れはない。肝焼きの加減も抜群。で、ワクワクしながら白焼きを味わってみたのだが、小骨がやたらと気になる。

たまたまかと思って食べ進めたが、違う箇所を食べても同じ。これは致命的だ。気持ちがしぼむ。

鰻重もやはり小骨が多い。タレの味、ご飯の硬さもバッチリなのに実にもったいない。たまたまだったと思いたいが、初訪問がそれだと二度目はない。

翌日の寿司は日本橋にある老舗・吉野鮨で食べた。ごくたまにしか行かないから、一見さんみたいなものだ。時には逆にそれも居心地の良さにつながる。


さすがの人気店だけあって、飛び込みでノレンをくぐったら「1時間で大丈夫ならどうぞ」とのこと。

この店に行きたくなる時は決まってただ黙々と寿司を食べたい気分の時だ。酒モードではなく握り寿司モードである。1時間もあれば充分である。

まずはビールをグビグビ。青柳、赤身、しめ鯖を少しずつ刺身でもらう。温かい一品も欲しかったので、穴子もツマミでもらって冷酒に切り替える。

いつもは無駄口ばかりの私も馴染みの店じゃないから沈思黙考しながらしっぽりと過ごす。これはこれで悪くない。ここまでで入店から25分ぐらいだ。

握りに移行する。この店の握りは小ぶりだし、酒ではなく寿司をしっかり食べたい気分だったので、どしどし注文してパクパク食べた。

あとで数えてみたら14貫も食べていた。近年の最高記録だ。油霜造りのヅケ、車海老、コハダ、タイの昆布締めといった手を加えたネタを中心に注文。どれも実にウマい。

煮蛤だけでなく、珍しいアサリの握りも抜群に美味しくておかわりした。いわゆる昔ながらの寿司のお手本みたいな感じだ。

とくに焦るわけでもなく、普通にツマミをもらって軽く酒を飲んで、ダラダラ飲まずに握りをぽんぽん頼んで、結局、入店してから小一時間である。

普段、ヤボな行動ばかりだから時にはこんな感じでイキを気取ってみるのも悪くない。こういうパターンのほうが食べたものの印象が強く残るような気がする。下の画像はお店のホームページから拝借した。



近年、寿司やお寿司屋さんの進化はめざましい。時代とともに変化していくのは当然だが、昔から続く正統派路線の魅力は捨てがたい。

職場から歩いて行ける距離にこういうお寿司屋さんがあることはラッキーなことだ。お値段もイケイケ系?の寿司屋みたいにトンチンカンではない。極めて適価だと思う。

ウニやトロとかをバンバン頼んだら分からないが、古典的なネタを楽しむのなら、むしろ安いと言ってもいい。

昨今の、おまかせ一辺倒のお寿司屋さんに慣れている人には不向きかも知れないが、保守的な中高年?にはオススメだ。


2020年6月19日金曜日

ようやく「かに道楽」


銀座8丁目の「かに道楽」に行ってきた。何年ぶりだろう。やっと入れたという感覚だ。

「かに道楽」は数年前から中国人観光客に占拠されてしまい、予約したくてもいつも満席だと断られ続けていた。

銀座店の場合、爆買いが話題になり始めた頃から中国人旅行者に大人気となったようで、デカい店なのにいつでも満席状態が続いていた。

いま潮が引くように観光客がいなくなったわけだから、営業再開したとはいえ、かなり厳しいはずだ。

私がチョロっと食べに行ったぐらいで影響はないだろうが、日本の誇るカニ料理を応援するためにガツガツ食べてきた。



30代の終わり頃から「カニに詳しい大人になりたい」と一念発起してカニ研究に精を出した時期がある。

冬の北陸に何度もズワイガニを攻めに行き、鳥取、島根側のズワイとの違いを考察してみたり、北海道では毛ガニを中心に気が狂ったように食べた。ワタリガニのために九州・有明を旅したこともある。

今ではすっかりカニに詳しいフリが出来るレベルになった。たどり着いた私の好みは、断然、毛ガニである。

かに道楽はコース中心のメニューだが、アラカルトで食べ散らかすのがオススメだ。カニすき、カニしゃぶも美味しいのだが、野菜が付いてくるのが邪魔なので、ついつい単品の注文になってしまう。

野菜問題以外にアラカルトで食べる大きな理由が毛ガニの姿茹でだ。コースだと出てこない。毛ガニファンとしては、あくまでこれが主役だ。

上の画像のような黄色っぽいミソの色合いは活茹での証である。ミソの色が緑に近い色に変わってしまってもウマいことはウマいが、やはり黄色系こそが醍醐味だ。

かに道楽のウリのひとつが刺身だろう。カニは火を入れたほうが確実に美味しいが、刺身の甘みも捨てがたい。なかなか食べられる機会がないわけだから必然的に注文する。



ズワイの刺身とタラバの刺身だ。冷酒をカピカピ飲んでいる時には抜群のアテになる。あまり量を食べるものではないが、都会の真ん中でこれが食べられるのは貴重だ。

これ以外にもズワイのカニ酢やらカニミソ甲羅焼きなどを肴に冷酒を楽しむ。カニと冷酒の組み合わせにバンザイ三唱である。

カニが大好きとはいえ、カニカニしたモノばかりだと飽きちゃうので、禁断のカニグラタンやカニ天ぷらも注文してしまった。

カニはやたらとカロリーが低いからダイエットにも最適なのだが、あくまで茹でたり焼いたりじゃないと意味が無い。



衣をつけて揚げものにしちゃったらデブ街道の入口である。おまけにグラタンである。せっかくの「カニで痩せる」という狙いはもろくも崩れた。

それでもカニの押し寿司みたいな炭水化物にまでは手を出さなかったことは我ながら立派?だと思う。

カニ祭りで酔っ払って上機嫌で過ごしていたら、店の窓から外の眺めが目に入った。8丁目のネオン街である。



クラブ街の灯りが淋しげだった。人通りも少ない。ほとんどの店が営業再開したようだが、さすがに客足が戻るには時間がかかるはずだ。

店内で距離をとって、マスクやフェイスシールド付の接客を受けてまで行く気になる人はかなり限られる。

皆さん、応援してあげたい気持ちはあるようだが、立場上、感染しちゃったらあちこちに影響が大きい人も多い。活況になるのはずっと先のことだろう。

この私ですら銀座8丁目で飲み食いしているのに、その後、クラブ活動に足を向けるという発想は出てこない。

気の毒ではあるが、こればかりは仕方のない話だ。クラウドファンディングで協力させられた店も無くはないが、どうにもならない話だ。

そういえばこの頃、まったく付き合いもなく会話を交わした記憶すら無いようなホステスさんからの営業メールがやたらと届くようになった。

生き残りに必死なのだろうが、闇雲に案内を出せばいいってものでもない。どんな業界だろうと今の時期は営業センスが試されていることを改めて痛感する。

2020年6月17日水曜日

シャリでしょ、シャリ!

一番好きな食べ物は寿司だと思っているのだが、その割には、寿司屋の後にラーメンみたいな油っぽいモノを一口、二口食べたくなる。謎だ。


本当は寿司が嫌いなのかも知れない。前からそう思っているのだが、週に一度は条件反射のようにお寿司屋さんのノレンをくぐる。



飲み屋として使っているように思われるのもシャクだし、それだと実際にヤボである。最近は以前よりも握りをしっかり食べるようになった。

それでも、せいぜい78貫で満足だ。酒も頼まず最初から握りだけでテンポ良く出されたら、きっと20貫近くは余裕でいけるはずだ。ちょっとだらしない。

最近つくづく感じるのがシャリの大切さだ。当たり前のことなのにこの部分がイマイチな店が多い。

握り方のウマいヘタの違いもあるが、それ以前にシャリ自体の差がかなり激しい。

別にグルメだの寿司通だのという次元ではなく、半世紀以上も生きてきた日本人なら誰だってシャリの格差は感じるはずだ。

ネタについては昔より格段に良くなった。流通が大幅に進歩したおかげだ。大昔の街場のお寿司屋さんで出てきたようなクサい魚はさすがに今は大衆寿司店でも出てこない。

ネタが良いわけだから尚更シャリは大事だ。世の中のマイルド化にともない、昔よりも存在感を全く感じないシャリが増えた。

もはや酢飯とは呼べないシロモノも出てくる。大箱店にはとくにその傾向が強い。万人受けを狙ったせいなのか、悪く言えば、どうでもいい味の“冷やご飯”みたいだ。

ネタの味とシャリの味がケンカしないためにマイルドになったのだと思うが、程度問題だ。やはり酢飯感は必要だと思う。



最近では昔ながらの赤酢を使ったシャリで握る店が人気を集めている。見た目から言えば赤酢のシャリより普通の白いシャリのほうが美味しそうである。

美的には赤酢の握りのほうが劣るようにも思うが、あえてそんな路線がもてはやされるのは、シャリにこだわりがある店という印象が強いからだろう。

裏返せば、美味しくないシャリに満足できない人が多いことを表している。私はとくに赤酢が一番だとは思っていないが、確かに赤酢を使う店は握りのレベルが高いのは確かだ。間違いなくベチャっとした“失格シャリ”が出てくる心配はない。

コメの炊き加減に好みがあるのは分かるが、寿司と鰻重に関しては絶対に硬く炊いたコメ、粒だったコメじゃないとダメだろう。

私が好きな握りはいろいろあるが、赤身のヅケや車海老、煮蛤といった古典的なものが中心だ。



私も若くて血気盛んな頃は、銀座のホステスさんのようにトロ、ウニ、イクラといったソッチ系?のネタを中心に食べていた。

ヅケやニハマなんて知ったかぶって格好つけながら注文していた感じだったが、歳とともに実際に大好きになった。今ではトロは苦手になってしまった。

コハダや白身の昆布締めなんかも大好きだ。年齢を重ねると四の五の言わずに保守的な路線になっていくのだろう。悪くいえばオジイサンみたいである。

今だってウニやイクラも大好きだが、主にツマミとして酒のお供にしている。

古典的?な握りの中でも海老の握りは私にとって絶対に外せない一品だ。回転寿司で出しているようなぺらぺらで味の無い謎の海老のせいで、なんとなく寿司業界ではスター級の扱いを受けていないように感じる。



甘エビ、ボタン海老など生エビが台頭したことも「ウマい茹で海老」が目立たない存在になってしまった理由かも知れない。

味が濃く旨味を感じるマトモな車海老の握りは寿司飯との相性が抜群だ。これが正しく美味しい店なら何を食べてもハズれは少ないと思う。

トロがスーパーヒーローみたいな地位を築く一方で、マグロのヅケはもはや知る人ぞ知るレベルの知名度になってしまった。

昔の保存食として生まれたものだから今の時代向きではないとも言えるが、“寿司っぽさ”という意味では私は妙にヅケに惹かれる。



煮きりをベースにした専用タレに15分ほど漬け込む即席のヅケも好きだが、もっと好きなのが油霜造りのヅケだ。

少しだけ湯通しして表面に膜を作る手法のことだが、美味しさが閉じ込められた感じがする。サッパリしながらも味にパンチがある。赤身の良さを再認識できる。

なんだかすっかり知ったかぶりグルメもどきみたいな書き方になってしまった。読み返してみると、やっぱりただのオジイサンみたいだ。

2020年6月15日月曜日

浜離宮 花菖蒲 水上バス


さっぱり分からない東京アラートとやらは解除されたが、世界に目を向ければ今も1日で10万人規模の感染者が発生しているから油断は出来ない。

海外との往来もいつまでも制限できないから、パンデミックが過ぎ去ったつもりでホゲホゲ暮らすわけにはいかないわけだ。

この暑さの中でもマスクをしていないと変な視線を浴びがちだ。マスクの中が汗だらけだと二重アゴ解消には効果がありそうだから良しとしよう。

休日に散歩に出ても結構な人出だ。わが家の近くには隅田川が流れているのだが、川沿いは墨田テラスという名前で遊歩道・公園みたいに整備されている。

散歩にはもってこいなのだが、マスクもせずにゼーゼーとランニングしている人も多い。ちょっとイヤだ。

もっと人のいない快適な場所はないかと考えて、先日はタクシーに乗って新橋に近い浜離宮庭園まで足を伸ばした。




元は徳川将軍のレクリエーションの場だ。世が世なら庶民は立ち入れなかったわけだが、今は300円払えば快適な散歩が楽しめる。

休日でもあまり人はいない。観光客がいないからガラガラだ。感染対策上は実に安心な散歩コースである。300円で安全が買えるなら安いものだ。

都内の有料の公園は今更ながら散歩に最適だ。文京区に住んでいた頃は、すぐそばに小石川植物園、少し行けば六義園があったから時々ぶらぶらと歩いた。小石川後楽園も穴場だった。

新宿に住んでいた頃は新宿御苑に行ったし、杉並区の実家住まいの頃にも井の頭公園まで出かけた。

無料の公園も含めれば都内には結構快適に散歩できる大型公園は多い。今回初めて行った浜離宮は水辺もあって、まさに都心のオアシスのように感じた。



さえない梅雨空の散策だったが、紫陽花や花菖蒲が目を楽しませてくれた。春の花も良いが今の時期も魅力的な花は多い。

スマホのカメラを花に向けるとその場で花の名前を教えてくれる便利なアプリを教わったので、花菖蒲とやらの名前を知ることが出来た。便利な時代になったものである。

浜離宮で歩き疲れて、帰路はまたタクシーに頼ろうかと思ったのだが、公園内に水上バス乗り場があった。

おまけにタイミングよく浅草方面行きが出発間近で、次の停船場所はわが家にほど近い聖路加ガーデン前だという。わずか5分程度の乗船時間だ。まさにバス的な使い方である。料金は400円。

5分で400円は高いようにも思うが、タクシーだったら700円ぐらいの距離だからコスパは悪くない。おまけに人のいない屋上デッキで風を浴びての快適な時間だ。感染対策上もバッチリである。



ただ歩くために300円、少し移動するのに400円。二人だったら2倍必要だ。これって倹約家からみれば無駄に思えるだろうが、今のご時世、人混みを避けて快適に過ごすためにはちっとも贅沢ではない。

Uber Eatsで割高な値段設定のメシを注文したり、妙に高い配送料を取る店を選ぶことを思えば、こういう出費ははるかに建設的?な出費だ。

ちなみに、この数ヶ月、Uber Eatsを使いまくったので、クレジットカード明細からウーバーの分を抽出して計算してみた。

先月の1ヶ月だけで5~6万は覚悟していたのだが、想像以上だった。ウン万円、いや“言えない万円”だった。

一人暮らしとしては異常な金額だ。反省しようと思う。

2020年6月12日金曜日

煩悩王、抗体検査、五輪

煩悩王。お笑いタレント渡部のスキャンダルを報じるメディアの表現だ。実に的確な呼び方だ。



高級料理を食べまくり、美人女優と結婚し子供も生まれて幸せそうなのに、セフレとムホムホ三昧だったわけだから、まさに煩悩の塊だ。

世の中のバッシングはかなり厳しい。まあ仕方ないことだが、そうは言っても仕事を全部失うような話なのだろうか。世の中に溜まりまくっているフラストレーションのはけ口が全部彼に集中しちゃったような雰囲気もある。

嫉妬の怖さみたいな感じもある。ハタから見れば最高のライフスタイルだったから嫉妬の裏返しが猛烈なバッシングにつながる。

私は渡部ファンではないし、どちらかといえば嫌いなタイプだ。擁護するわけではないが、要は浮気だ。浮気というより”浮身”と表現したほうがいいかもしれない。覚せい剤でもなければ人を殺めたわけでもない。変な話、奥さんが美人だったからコトがやたらと大きくなっている気がする。だとしたらヘンテコな話だろう。

浮気を肯定するわけではないが、そんなものは当事者がゴタゴタすることであって、奥さんや迷惑をかけたセフレとの揉め事に他ならない。

昭和の頃に浮名を流しまくった勝新やショーケンに対して「そんなもんだろう」と反応していた世の中と今の社会の空気はずいぶん変わった。昭和の火野正平はメディアに追いまくられてもケロッとしていた。

そういえば、その昔、幼女わいせつという許しがたいトンデモ事件を起こしたプロ野球のピッチャーだって、その後、普通に復帰して試合で投げていた。いまさらながら社会の変化に驚かされる。

まあ、あれだけの売れっ子だったのだから、そんな社会の様相をちゃんと警戒しきれなかった彼の失態ではある。

それにしても場所が「トイレ」である。なんともまあショボイ話だ。不倫で使うアパホテルでポイントを貯めていたことで非難された某袴田さんや、愛車ランドクルーザーの車内が定番だった某原田龍二さんもそのセコさが叩かれたが、トイレに比べればマシだ。

いわば、セコいと批判された彼らの”復権”になったわけだ。ついでにいえば、かつて高年俸なのに五反田のラブホを使ったセコさが揶揄された元巨人の某"モナ岡"選手だって復権である。

不倫は蜜の味、人の不幸も蜜の味だ。だから浮気だ不倫だと大騒ぎする風潮はまだまだ収まらないだろう。なんだかんだ言ってバレたら負けだ。

さて他人の浮気話だけで終わるのもシャクだから話題を変える。

先日、抗体検査を受けてきた。このブログでも「感染済みかも」と書いたことがあるが、今年初めに高熱で寝込んだことなどで、ひょっとしたら既にコロナの抗体があるのでないかと期待していた。

行きつけのクリニックから抗体検査キットが届いたという連絡を受け、いそいそと出かけてきた。採血して15分ほど待って結果が出た。まったくの無反応だった。現在はもちろん、過去にも感染歴はなかった。まだまだ慎重な行動を続けなければならない。残念である。



ソフトバンクグループが全社員4万4千人に抗体検査をしたところ陽性だったのは0.04%だったとか。数千人に一人ということになる(計算が違ってたらゴメンナサイ)。おまけに店舗スタッフより本社やコールセンター関係者のほうが陽性率が高かったそうだ。

なんだかよくわからないが、こうなると日本人は「滅多にコロナにはかからない」という話に思えてくる。抗体検査そのものの精度やウイルス自体に謎が多いから滅多なことは言えないが、謎は深まるばかりだ。

もちろん、高齢者が亡くなるリスクが高いのは確かだし、無症状の人が活動しまくっている以上、感染が収束しないのも事実である。ワクチンも特効薬もない以上、今年の秋冬からまた大騒動になるのは至極当然のことだと認識する必要はあるだろう。

先日、来年に延期されたオリンピックを簡素なスタイルにするという方方向性を組織委が示した。必死に開催に向けて頑張っている方々には申し訳ないが、本気で来年オリンピックをやれると思っている人は果たしてどのぐらいいるのだろうか。

センバツ出場校を招いての特殊な交流試合を開催することは決まったものの、例年通りの夏の甲子園すら出来ない状態の国である。わずか1年後にオリンピックを行うことは現実的ではないだろう。

五輪中止を語ることがまるでタブーみたいになっている点が気になる。政府や関係者が本音では開催は無理と思っているにもかかわらず、ババを引きたくないとか、メンツがどうだとか、そういう思惑でダラダラと時間を経過させれば、莫大な経費が流出し続ける。

コロナ禍が秋冬以降から再燃すれば、今度は長期戦になる。対策予算も青天井になることを想像すれば、何が必要なのかは自ずと分かる。取り越し苦労になったとしたらそれはそれで喜ばしいが、危機管理という意味では楽観は禁物だ。

なんだか今日は話がアチコチに飛んでしまった。

2020年6月10日水曜日

カレーを食べてきた歴史


「今日はカレーよ!」
「ワーイ、やったあ!」。

昭和の夕暮れを思い起こさせるフレーズである。あの頃、いや今も世の中の子供にとって“お母さんのカレー”は御馳走だ。

私は苦手だった。アマノジャクで言っているのではない。本気で苦手だった。

理由はただ一つ。野菜である。お母さんカレーは私に言わせれば野菜料理だ。子を思う親心が生んだ食べ物である。

いつだったか、私が子供達に会いに出かけた際、元嫁さんが作っていたカレーをみて卒倒しそうになった。数々の野菜に加えインゲンまで投入されていた。

児童相談所に通報しようと思ったほど衝撃的だったのだが、子供達は慣れているせいで普通にバクバク食べていた。

妙な疎外感と孤独を感じた一瞬だった。

私は生まれた時から野菜が嫌いだ。世間にそう公表していたにもかかわらず、子供の頃に食べる家でのカレーといえば、芋やニンジンが当然のようにゴロゴロ入っていた。

嬉しくなかったなあ。

次の日になると一層美味しくなるとか言われるが、私にとってはマユツバだ。イモが溶け出してジョルジョルした食感が強まるから全然ダメ。

いま思えば罰当たりなガキである。でも、大人になった今もそういうカレーは苦手だ。



当時、ボンカレーが一世を風靡していたが、あれにも困った。パッケージからしてお母さんカレーがコンセプトである。芋やニンジンが主役みたいな食べ物だ。

いまやボンカレーも進化して昔とは比べられないような凝りまくった種類も発売されているが、芋やニンジンは常に不動のポジションだ。だから私は苦手だ。

カレーはもはや国民食と呼ばれる。その原点がそれぞれの家での“お母さんカレー”である。そう考えると私は「非国民」なのかもしれない。

小学生の頃、学校の近くにインドカレーの老舗「アジャンタ」があった。親に連れて行かれて初めて食べた時は衝撃的だった。

辛さそのものに衝撃を受けたのだが、それと同じぐらいに具が鶏肉だけだったことに嬉しい衝撃を受けた。芋もニンジンも見当たらない。素直にハッピーだった。

アジャンタは今は麹町店だけになったが、今も時折無性に食べたくなる。私にとって本格インドカレーの原点みたいな店だ。

その後、私が大学生ぐらいの頃だろうか、レトルトの世界に「カレーマルシェ」が登場して風向きは変わった。野菜ゴロゴロとは無縁のカレーだ。

芋やニンジンを排除したカレーは欧風カレーやインドカレーの世界では珍しくなかったが、普通に家で食べるレトルトカレーというジャンルにおいてはあれが革命的だった記憶がある。

今はレトルトカレーも進化して、昔のような非常食的なイメージは無くなった。高級路線になればヘタな店で食べるより美味しい。



ひとつ2千円を越えるようなレトルトカレーも試してみたことはあるが、カレーの好みは人それぞれだ。必ずしも高ければ良いというわけでもない。

私が好きなガヴィアルのカレーと100時間カレーは同じメーカーの商品だ。このほかにはヱスビーのプレミアムフォンドボーディナーカレーのレトルトも好きだ。

だいたい一つ400500円ぐらいだ。レトルトにしては高いが、“本気レトルト”って感じのこういう価格帯には想像以上にウマいカレーがいくつもある。

結局、欧風系が好きみたいだ。私の場合、カレーを食べるのは朝が多い。朝カレーだから辛すぎるのはイヤだし、バターチキンとかもキツい。自ずとマイルド系になる。

マイルド路線を前提にしているわけだから、ちょっと偏った意見ではある。本気でウマいレトルトカレーを探している人にはあまり参考にならなくてスイマセン。

余談。前にも書いたが「なか卯」のカレーが妙にウマいので、相変わらず誰彼構わず勧めまくっている。回し者みたいである。牛丼「松屋」のカレーもウマいが、私は「なか卯」派である。

まとめ。とにかく、大人になって良かったことの一つが野菜ぶりぶりカレーから解放されたことである。

その一点だけでもオジサンとして生きていることは素晴らしいと思う。

2020年6月8日月曜日

豚丼と日本人の呪縛


東京には豚丼専門店が少ない。由々しき問題だ。1300万人都市にしてはごくわずかな数だろう。

人口16万人の帯広市は街を歩けば豚丼屋だらけだ。素晴らしいことだと思う。その一点だけをみれば私は帯広に移住したい。



都内で肉系のどんぶりモノと言えば牛丼である。まさに完全制圧だろう。徳川家康みたいだ。

牛丼屋がおまけみたいにメニューに加えている豚丼はあるが、たいてい美味しくない。きっと豚丼勢力が増長しないように、わざとシャバダバな商品にしているのだろう。

知る人ぞ知る人気店「豚大学」にしても都内に3店舗しかない。その他の人気店も個人店が中心で、学生街にぽつんとある程度だ。



豚丼勢力が伸び悩んでいる大きな理由がある。すなわち「牛肉は豚肉よりエラい」という日本人に染み渡った固定観念である。

昭和の高度成長期の人間模様を描いて大ヒットした映画「ALWAYS 3丁目の夕日」では肉じゃがの肉が豚だったことに生意気な子供が文句を言うシーンがあった。

豚は安モノ、劣るモノ。そんな呪縛に囚われている日本人は想像以上に多い。牛丼があんな安く食べられるのに、豚丼専門店の豚丼のほうが高価なわけだから、牛丼の家康状態は揺らがないわけだ。

そりゃあ牛丼だってウマい。大昔より肉もマトモになったが、そうはいっても出がらしみたいな肉である(すいません、言い過ぎです!)。すき焼き重、ステーキ丼といった本格派の牛と比べれば別モノみたいな肉だ。

だからあの値段で提供される。それをしっかりとマトモな豚肉を使った豚丼と比べて、高い安いを考えるのは意味が無い。

豚肉のほうが牛肉より美味しい。私はそういう感覚だ。牛丼が300円ぐらいで食べられるとしても、1000円超えのウマい豚丼があればそっちを選んでしまう。

わが家の冷凍庫には牛肉はない。肉は豚肉だらけだ。週末の朝昼兼用メシは豚肉を焼いて食べることが多い。いろんなタレが常備してあるので、その日の気分で使い分ける。

先日Uber Eatsで豚丼を探してみた。芝公園にある「じゅじゅ庵」という店があったので早速注文してみた。




醤油ベースの味付けの豚丼とガーリック風味の豚丼を試してみた。バイクで10分以上かけて運ばれてきた割にはさほど冷めていなかったので大満足。近くに住んでいたら頻繁に通っちゃいそうだ。

わが家のそばにある「日本豚園」という居酒屋が宅配専門メニューにしている豚丼もちょくちょくウーバーで持ってきてもらう。今後は「じゅじゅ庵」もヘビーローテーションになりそうだ。

先月このブログでヤケッパチみたいなチャーシューメンの話を書いた(http://fugoh-kisya.blogspot.com/2020/05/blog-post_13.html)が、その店のチャーシューにすっかりハマってしまった。

先日はチャーシューだけを持ち帰って豚丼にアレンジしてみた。我ながら素晴らしい発想だと思った。



速攻でかっ食らってしまったので画像はない。市販の豚丼のタレを軽く合わせながらフライパンで軽く温め直し、ほかほかご飯の上にデンと並べてみた。幸せだった。

最近はちっとも旅行計画が立てられないので、貯めまくっているマイルが少しずつ有効期限が近づいている。

失効しちゃうのはシャクに障るから近いうちに帯広に飛んで豚丼屋めぐりでもしてみようかと思う。

2020年6月5日金曜日

マズいアメリカ、マズい炊き込み


アメリカがマズいことになっている。人種差別問題をきっかけにした抗議デモが暴徒化し、首都ワシントンに軍が配備されたとか。マズい事態である。

世界の警察と呼ばれた頃のイメージは地に落ちたと言ってもいい。物騒な国、乱暴な国、オッソろしい国である。なんだか切ない。

切ない理由は私自身が自分がアメリカに憧れた世代だからだ。音楽、ファッション、食べ物に至るまでアメリカが最高!みたいな空気の中で子供の頃から若者時代を過ごしてきた。

憧れていたというより、憧れるように仕向けられていたのだろう。戦後統治をきっかけに刷り込まれた「アメリカって凄いんだぜ」という感覚は、戦後生まれならほとんどの世代に共通している。

私自身、学生時代は「ベストヒットUSA」を毎週欠かさずチェックし、フォード・ブロンコやシボレー・ブレイザーに憧れ、ウェスタンブーツを履いてカッコつけていた。

街にはナゼか派手なスタジャンを着て、ドジャースなど大リーグ球団のヘルメットを合わせる若者が溢れていた。

行きたい旅先もヨーロッパより断然アメリカだったから、私も実際にパリの小径に佇むよりロスの雑踏に身を置く方が嬉しかった。

まさに「偉大なるアメリカ」って感じだった。そんなアメリカがマズいことになっているのは何となく淋しい。

戦後の日本にとってはアメリカは親みたいな存在だったわけだが、その功罪はともかく、今は時代の転換期なのだろう。

トランプ政権が繰り出す数々の“アメリカの本音”をオヨヨ~、マズいぞ!って感じる人は多い。単なる追随が既に限界にあることは明白だ。

マズい事態のあの国とどう向き合うかは成熟した日本に突きつけられた厄介な課題だろう。

マズいマズいと書いたついでに、マズい食事の話に移ろう。なんともまあ強引な話題転換である。

先日、油断してマズい食事を作ってしまった。味付けには天性の才能があると根拠もなく勝手に思い込んでいる私にとっては惨劇だった。

とある日、チキンライスっぽいもの、ピラフっぽいもの、炊き込みご飯っぽいものが食べたい気分になった。

要は白米じゃないメシが食べたくなったわけだ。思いついたのが炊飯器任せの簡単炊き込み作戦である。

かつてレトルトパスタソースを使って上手に即席ピラフもどきが作れた経験と、アレルギーが気にならなかった頃に頻繁に作ったサバ缶を使った炊き込みメシの成功体験があったせいで、余裕しゃくしゃくで取り組んでみた。


2合の米に水は1.4合分ぐらいの量を投入。そこにレトルトのミートソースを1人前、塩こしょうをテキトーに、そしてぶつ切りのチキンをドカドカ投入、他にトマトケチャップを4周分ぐらいビューッ、隠し味のつもりでウスターソースを2周分ぐらい追加して、早炊きでスイッチをポンである。



出来た時の画像だ。なんだかマズそうである。

食べてみた。マズい。今時はしっかりマズいものを食べる機会はなかなか無い。ちょっとマズいだとか、あまりウマくないという食べ物はあるが、明確にマズいというケースは貴重だ。

仕方なくケチャップを追加でブチユっとかけてみた。ちょっとは食べられる味になった気がした。



結局、鶏肉ばかり食べてコメの多くを残してしまった。敗北である。

以前、上手に作れた時との違いを考えてみた。

バター、オニオンペースト、粉末コンソメといったメンバーを招集するのを忘れたのが大きな敗因だろう。

簡単クッキングとはいえ、用意万端にして気合いを込めて挑まないとマズいものしか出来ない。

反省だ。ケチャップばかり好むアメリカ人なら食べてくれたかも知れないが、ビミョーである・・・。

なんだかシッチャカメッチャカな結論になってしまった。



2020年6月3日水曜日

デブのコツ


なかなか体重が落ちない。マメに歩いたり、乗っているだけで運動になるというブルブルマシーンを使っているが、ちっとも効果はない。



この歳になると基礎代謝が無くなっちゃうから、呼吸しているだけで太る。アクビをしたら1キロぐらい増える気がする。

さて、デブの原因は食べ過ぎである。言い換えればデブになるコツはバカみたいに食べることだ。これは真理だ。

自分の行動分析をして気付いたのだが、私がデブになっているのは「複数」がキーワードである。

外食の場で1品しか注文しないというパターンは私にはない。飲み屋ならいくつかツマミを頼むのは普通だが、酒抜きの場でも複数の注文をしてしまう。

ラーメンにも餃子を追加するし、ソバ屋に行っても暖かいソバと冷たいソバを頼むのが標準形である。

先日、久しぶりに日本橋の「大江戸」にウナギを食べに行った。まだまだ飲食店は大混雑という状況にはない。人気店にも予約無しでふらっと入れることが多い。

だからまた太るという悪循環でもある。

鰻重だけを食べてサッと帰るのもイキだが、私はどうしてもそれが出来ない。ダラダラとアレコレ食べながら過ごしてしまう。



アンキモ山椒煮と生ウニで冷酒をカピカピ飲み始める。幸せだ。鰻屋さん独特のアノ香りの中でウナギを待ちながら飲む時間は最高だ。

このあとで鰻重を食べればいいのに、そうしないところが私がデブでいるコツである。



白焼き登場だ。わさび醤油で楽しむ白焼きは冷酒のウマさを引き立たせる。日本酒だって高カロリーだからデブという見地からは悪循環である。

白焼きでウナギをしっかり一尾食べているのだから、ここで終了でもおかしくはない。カロリー的にも充分だし、白焼きを食べ終わった時点で、冷静に考えれば空腹ではなくなっている。

でも、でも。でもである。この後、鰻重を食べずに帰ることは難しい。それが常識だ。常識であり流儀であり仁義でありマナーであり習慣である。



で、鰻重がやってきた。せめて一番小さいサイズを頼めばいいのに、ウナガー、ウナギストとしての矜恃がそれを許さず、大きめのサイズを注文してしまう。

デブ完成である。

別な日、胃と腸の検査後に洋食屋さんの揚げ物およびタルタルソースが食べたくなって「銀座スイス」に出かけた。カニクリームコロッケとエビフライを両方注文しようと思ったのだが、体重を気にして断念、ミックスフライだけにしてみた。



これにご飯をもらえば充分に幸せなはずだが、そうはいかないのが私の病的な特徴である。

こういう店のライスは盛りが上品なのが問題である。ダンディーなふりをしながらの一人メシだ。「ご飯は大盛りでね!」と明るく頼む勇気はない。自意識過剰なバカである。

悩んだ末の結論はオムライスだ。ライス大盛りよりカロリー的には断然多い。でも腹ペコだったせいで、余計な注文の仕方をしてしまった。



デブ完成である。

つくづく思う。後悔ってどうして後からやってくるのだろう。ウナギの時もオムライスの時も、注文したり食べている時は単に幸せでウッシシな気分だった。

たいていは翌日に後悔して自己嫌悪になる。分かっちゃいるのにやめられないってヤツである。

何十年も同じことをしている。そんなブレない愚かさもデブのコツだろう。