2012年5月30日水曜日
洋食の魔力
欧米にルーツがある料理が日本人向けに進化したものというのが定義だろう。ラーメンや冷やし中華の場合、ルーツが欧米ではないから洋食とは言われない。
そんなことはさておき、私は無類の洋食好きである。我々の世代は、アメリカのいわゆる「小麦戦略」を真っ正面から受入れた世代だから身体の芯から洋食が好きだ。
アメリカの小麦戦略は、最近こそ知られて来た歴史の事実だが、考えてみれば凄まじい話ではある。
余剰農産物の処理に困ったアメリカが、大量の小麦を安く日本に押し込む一方、その使い方まで指図するために膨大な資金も用意して日本人の食生活に革命を起したというもの。
明確かつ長期的な国家ビジョンを持ってヨソの国の食文化を変えちゃうんだから、アメリカのしたたかさには恐れ入る。
昭和30年代には、日本の立派な学者まで旗振り役になって「コメを食ったら馬鹿になる」とか「パンを食べなかったから戦争に負けた」みたいなトンチンカンな話が世間に流布されたらしい。
給食は全面的にパンばかりになり、その後は気付いたらアメリカ系のハンバーガー屋がドドッと押し寄せ、その手のファーストフードが国民食になった経緯がある。
事実上の植民地政策にどっぷりと浸かり、古くからの食文化が否定されてしまったわけだから、敗戦の隠された後遺症みたいなものだ。
結果、我々の世代の給食は毎日毎日変わりばえのしないまずいパンとバターが主食だった。
何も知らずに食べていたが、戦勝国に利益をもたらす一助を担っていたかと思うとシャクにさわる話ではある。
まあ、今更ブツクサ言っても始まらない。そんな話はさておき、洋食の話題に戻ろう。
もともと明治、大正時代からハイカラな食事として存在していた洋食は、小麦戦略という強力な後押しによって広く普及する結果となり、庶民にも身近になっていった。
マカロニグラタン、コロッケ、フライ。その他にも肉や乳製品をブリブリ消費する必要のあった敗戦国ニッポンの事情もあって、日常的な食べ物として浸透したわけだ。
昭和40年代に可愛い子どもだった私が、それらの料理を浴びるほど食べたのも当然だ。おまけに実家の祖父は「浅草のモボ」上がりである。ハイカラな洋食が大好物だったから、世相も相まって、わが家のハレの日はその手の料理が基本だった。
そんなこんなで、和食以外のものを食べたい時でも、私の場合、真っ先に浮かぶのが洋食である。正統派フレンチとかではない。カニクリームコロッケとかタンシチューとかメンチカツとか、そっち方面に心奪われる。
冒頭のタンシチューとこの肉汁メンチカツの画像は、銀座8丁目の「YAMAGATA」にてワシワシ食べた料理だ。
この店は、クラブやスナックがたくさん入っている雑居ビルにひっそりと構える。銀座界隈の洋食屋さんのなかでは、値段設定はお手軽だ。味もまあまあ。ファミレスとかカフェだと今ひとつ物足りない気分の時に使うには悪くない。
優雅さとか高級感とは違うが、小綺麗で落ち着く空間だ。小洒落た洋食の定食屋さんぐらいのイメージだろうか。
ちなみに「洋食気分」を確実に満足させてくれるのが日本系老舗ホテルのカフェレストランだろう。メインのフレンチとかではなく、ロビーフロアに構える気取らない店に、その手のウマいものが用意されている。
そういえば、最近、皇居横のパレスホテルが新装オープンしたから、ローストビーフとピラフを食べに行かねばなるまい。近いうちに探検してこよう。
話がそれた。画像は九段下のグランドパレスの小海老のピラフだ。ナントカのひとつ覚えのようにこのブログで誉めまくっているが、最近も飽きずにガシガシ食べている。
特製ソースをピチャッとまぶして熱々のピラフを口に運ぶと、この国に生まれて良かったとしみじみ思う。大げさだがホントだ。
いつもこればかり注文するので、ついつい他のメニューに目がいかない。フンワリオムライスも評判いいし、カレーライスも根強いファンがいるらしいが、いまだ未体験だ。
先日はピラフ以外にカルボナーラを注文してみた。
やはり日本の洋食である。イタリアンレストランで出てくるカルボナーラとは随分違う。半熟レア気味のタマゴが頂上にトッピングされている。
ぐちゃっと崩して、弾け出てきたオレンジ色の液体を全体に和えていく。うーん官能的である。こんな作業が自分で出来るのがちょっと嬉しい。
味はどことなく日本的だった。家庭で作ったらこんな感じになりそうな身近?な感じ。それはそれでとっつきやすい感じで悪くなかった。
なんだか書いているだけで腹が減ってきた。根岸にある香味屋のビフカツとか赤坂津つ井のビフテキ丼とかのイメージがこの瞬間も脳裏をよぎっている。
パブロフの犬状態である。ツバだらけだ。食い意地煩悩太郎である。
胃腸方面にはくれぐれも元気でいてもらいたいものだ。
2012年5月28日月曜日
中年雑記
それにしても「中年」である。アラフォーどころの騒ぎではなくなってしまった。どう逆立ちしても若者ではない自分に時々びっくりする。
若者に戻りたい気持ちはまったく無いのだが、かといって、このまま今までのような早さ(感覚的なものだが)で年を重ねることに違和感もある。
面白いもので、老化は実にゆっくりと自然にさりげなく無理のないペースで身体に居座り始める。
徐々に。この言葉がピッタリだ。
軟体動物みたいに柔らかかった身体は徐々に固くなり、徐々に視力は劣化して、徐々に胃袋も人並みの容量になり、徐々に腰が痛くなったりする。
頭の中はどうなんだろう。気付けば記憶力は弱まり、予定調和を良しとする判断ばかりになり、保身や妥協を優先しがちになった。
瞬時の判断力は若い頃より進化したのだろうが、発想の着地先がどうにもフレッシュではない。「劣化」しているような気もする。
徐々にそうなってきた。
まだまだ老け込むには早いのだが、ちょっと残念な状態だと思う。
「こだわり」などと言えば格好いいが、ひと皮剥いたら、単に固定観念に凝り固まっているだけだったりする。
たまに若者に刺激を受けて、固定観念の呪縛から一歩外に出てみると妙に世の中が明るく見える。心をフラットにしておかないと自分が損するわけだから要注意だ。
中年という存在の面倒な部分は、若者でもなければ年寄りでもないというところだ。青臭いことは言えないくせに、悟ったような言葉を吐くほどこなれていない。「適度な感じ」を求められているような立ち位置とでも言おうか。
自分を振り返ってみると、好奇心なんてどこかに行ってしまったかのようだ。新しいことに挑む気力が湧かないことは自ら人生を退屈にしているわけだから、この点は猛省しないとなるまい。
「オトナの余裕ですね~」とか若い女性に言われることがある。馬鹿言ってるんじゃない。余裕なんかではない。ボーとしているだけだ。
「ガツガツしてませんね~」。こんなセリフを向けられることもある。冗談じゃない。疲れているだけだ。ガツガツしたいけど心身ともにそうもいかない事情もある。
適度な達観と、一歩を踏み出す柔軟性。これがマスターできたらカッチョイイ大人なんだと思う。
少なくとも悶々とこんなくだらないことを書いているようでは、エネルギッシュな大人にはなれないのは確かだ。
エネルギッシュな大人だったら、こんな問題を意識することもなく日々を過ごしているはずだ。
頑張らねば。
いやいや頑張ることは正解ではないのだろう。頑張っちゃうと、「郷ひろみ」みたいな痛々しい感じになりそうでイヤだ。
やはり自然体が一番なんだろう。
今日は、隠居ジジイみたいな話を書いてしまったから、ついでにそれっぽい詩を紹介したい。尊敬する人に教わった茨木のり子さんの「倚(よ)りかからず」という詩だ。73歳の時の作品だそうだ。ちょっと感動した。
これに感動しているようでは、やはり隠居ジジイっぽいだろうか。
いやいや、悶々とする中年こそこういう姿勢は大事だと思う。
もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ
2012年5月25日金曜日
バリ島が呼んでいる
「本当の故郷とは生まれ育った場所とは限らない。本当の故郷を見つけられた人は幸せだ」。
開高健の言葉だ。
カッチョ良く書いてみたが、先日、Facebookで母校の後輩から教わった言葉の受け売りだ。
生まれ育った場所以外に、私が心を揺さぶられるのはバリ島だ。かれこれ10回以上出かけただろうか。とにかく惹かれる。身体の奥底にある根っこのような魂が呼び寄せられる感じだ。
ゴールデンウィークが終わったあたりから、どうもバリ島が私を呼んでいる。また行かねばなるまい。そう遠くないうちに「渡バリ」する予定だ。
ざっと数えただけで、ちょろっと寄ったところを含めればこれまでの人生のうちに40ぐらいの国や地域に出かけてきた。
その中でどこが一番好きかと言われたら迷わずバリ島を選ぶ。理屈抜きに好きなんだからしょうがない。
初めて行ったのは20年近く前になる。インドネシアのメナドへの潜水旅行の際、トランジットでバリに立ち寄った。1泊しかない日程の中で、伝統舞踊を見たり工芸の村を訪ねて、文化の奥深さ、芸術的感性の高さに感動した。
その後、頻繁にバリ各地に潜りに出かけるようになったのだが、旅の後半の1~2日は海とは無縁の観光に励むようになった。
最近では、日程の半分ぐらいを潜水以外に費やすようになった。島中至るところにある古い寺院を訪ねたり、ライステラスの景色をボーと眺めたり、小洒落たリゾートのバレブンゴン(東屋)でホゲホゲしたり、陸の風景をカメラに収めて喜んでいる。今日の画像は2年前に行った時に撮影したもの。クリックすると大きなサイズで見られます。
あちらの言葉で散歩のことを「ジャランジャラン」と言う。カメラ片手にジャランジャランしている時間がとても好きだ。絵になる光景にすぐに出会える。
香りというか、匂いがまた良い。プルメリアのさりげなく甘い香り、そこここに置かれた神様へのお供え物に添えられたコメの匂い、ふっと漂ってくるお香の匂いなどなど。どこかから聞こえてくるガムランの音色と混ざり合って、心地よいバリ・トランスに陥る。
ホテル選びの楽しさもバリの魅力だ。ブルガリリゾートとかセントレジスを筆頭に世界最高レベルのリゾートが点在する一方で、プライベートプールが付いた隠れ家ヴィラや、地元様式に則った妖怪が出て来そうなディープな宿もゴロゴロある。選びきれないほどだ。
数十年単位の歴史を持つ老舗リゾートであれば、いい感じに苔むした庭が何とも言えないバリ情緒を醸し出す。
リソートの見本市みたいな場所だと思う。
バリ島南部のメインリゾートエリアで充分に楽しめるが、少し移動すれば違った魅力に溢れている。郊外に行けば行くほど自然は濃密になり、バリっぽさも濃厚になる。
郊外で過ごす夜の時間は、夜空に浮かぶ星の群れに圧倒される。綺麗と言うよりグチャグチャと表現する方が的確なぐらいだ。
以前、空港から3時間近くクルマで移動したリゾートで、施設の灯りを一時的にすべて消してゲスト全員で星空ウォッチングをしたことがある。
周辺に民家なども無く、そのリゾートが灯りを消せば正真正銘の夜の闇に包まれる。地べたに寝ころんで空を見上げていたら、天空に吸い寄せられそうな幽体離脱みたいな不思議な感じを味わえた。
星空だけでなく、私が心惹かれるのはバリの月だ。バリムーンなどと言うと、怪しいインドネシア料理屋のまずそうなカクテルみたいだが、夜の散策では必ず月を探す。
砂浜に腰をおろして、ボーッと波の音を聞きながら海を照らす月を見ていると、それだけで「解脱」だ。水面に揺れる月の明かりが日常の煩わしさを束の間消してくれる。月光浴によって自分の五感がリフレッシュされ、すべての感度が上がる気がする。
一般的にイメージされる南国リゾート特有の底抜けに明るい穏やかな空気とは微妙に違う「気」に満ちている点がバリの特徴だ。そこに惹かれた人は徹底的にはまることになる。
神々の島と呼ばれる場所だけのことはある。月の明かりも夕焼けの輝き具合もどこかスピリチュアルな雰囲気を漂わす。
夕陽鑑賞スポットにしてもバリの場合は、寺院が背景に欠かせないから独特な情緒を伴う。南部のウルワツ、中西部のタナロットが2大スポットだが、それぞれ素晴らしいサンセットショーを目に焼き付けることが出来る。
いずれも夕陽の中に神を見た大昔の高僧が造った寺院だ。どこか神秘的で荘厳な感じに包まれる。
今度行く時は、潜水は2,3日にして、その後は、山側のウブドでディープな宿にこもったり、隠れ家ヴィラでしっぽりする時間も確保する予定だ。
行くたびに刺激をくれる神々の島、次はどんな啓示を与えてくれるのだろうか。
2012年5月23日水曜日
苦手なこと
スカイツリー狂騒曲がしばらく続きそうだ。よく分からないが、文明が高度化することはめでたいことなんだろう。
それにしても、あの手の新しいモノに一番乗りしたいとか、並んででも見に行きたいという心理が分からない。
私の苦手なことの筆頭が「並ぶこと」である。スカイツリー見たさに何日も前から徹夜で並ぶような人達が宇宙人に思える。
新しい橋が架かった、新しい道路が開通した、新しいショッピングモールが完成したなどというニュースには決まって行列する人々の姿が付きものだ。
趣味なんだろうなあ。人様の趣味をアレコレ言えないが、ああいう人達はきっと物凄く忍耐力があって、気が長い人なんだと思う。
それはそれで尊敬に値する。そんな好奇心旺盛で何事も素直に楽しもうとする姿勢を見習った方が人生は楽しいのかもしれない。
イヤだけど。
千葉にあるディズニーランドも大学生の頃に行ったきりもう四半世紀ご無沙汰だ。きっと死ぬまで行かないと思う。子どもを持つ親としては珍しいらしいが、ダメなものはダメだ。
「30分しか並ばずに済んだ」。こんな日本語が平気で通用する世界だ。意味不明である。30分も並んで遊具に乗るほど私の人生には余裕がない。
タイムイズマネーだ。光陰矢の如しだ。急いては事をし損じるだ。これは違うか。
そのわりにくだらないことで日がな一日過ごすこともあるから、要は単なるワガママなんだろうか。
渋滞がイヤだから、お盆の時期とかゴールデンウイークに車で遠出することはない。昼飯を食べるためだけにそこら辺の店に並ぶことも不可能だ。ラーメンのために人生の貴重な時間を行列作りに費やすことも無理だ。
これってワガママなんだろうか。自分では至極まっとうな普通の考えだと思うが、喜々として行列している人を見るたびに自分が変な生き物なのかと心配になる。
並ぶことと同じで、待つことも得意ではない。
以前、何度か通った銀座のクラブで、いちいちお勘定が運ばれてくるのが遅い店があった。
請求書を送ってもらって帰ることもできたが、その場で清算したい私としてはチェックをお願いしてから待たされる時間がイヤだった。
店側はサービスのつもりだったのか。キチキチセコセコ追い払うようにするより優雅な時間を過ごさせようとでも思ったのだろう。
でも帰ると決めたらすぐ帰りたい。結局、その一点が気に入らなくてその店に足を運ぶことはなくなった。
短気は損気。子供の頃からそう教わっていたが、江戸っ子バリバリの祖父などは、静寂に包まれたフランス料理の高級レストランで、突如大きな声で「遅いぞ!何やってんだ!」と怒鳴り出す人だったから、私の短気など可愛いものだろう。
贅沢でいかんのだが、新幹線に乗る時も近距離だろうと自由席の列に並ぶのがダメで指定を買う。
飛行機に乗るときも搭乗ゲートとか通路で並ぶのがイヤで、いつまでもダラダラしている。最後の乗客になってしまって館内放送で名指しで呼ばれることもしょっちゅうだ。
宝くじだって並んで買うような信心深さはまったくないから、さびれた駅のさびれた窓口で買う。だから当たったためしがない。
そういえば、今度行こうと思っているバリ島に関する話だが、ガルーダインドネシア航空の素晴らしいサービスは私のお気に入りだ。
入国審査官が飛行機に乗りこんでいて、機内でパスポートチェックや入国審査が完了する。空港についても、荷物が出てくるのを待つだけで、さっさと行動できる。
ガルーダは羽田からもバリ直行便を飛ばし始めたが、なぜかこの素敵なサービスは成田発着便に限られている。そのせいで便利な羽田便が就航してもついつい二の足を踏んでいる。
まあ、バリの場合、高級ホテルなんかではホテルスタッフによる優先的な入国手続き代行サービスもあるから、羽田便でもそんな手配をしておけば問題はないのだが。
話を戻す。待たされる話だった。
あまり待たされると、当然機嫌は悪化する。5分ぐらいならまあ仕方がないが、それ以上になるとカチンスイッチが入り始める。
逆に私自身は、一対一の待ち合わせにはキッチリ遅れずに行くタイプではある。
だから自分に甘いわけではない。あくまで私の時間を軽視されたかのような相手のルーズさに腹が立つわけだ。
そうは言っても、凄く会いたい人、大好きな人、とくにそれが異性だったりすると少しばかり事情が異なる。
もちろん、イライラはする。でも待たされる程度にもよるが、待っている時間そのものがちょっと楽しい。
手持ちぶさたな感じがやるせない感じにつながって、わずかな時間が愛おしい時間に思えてくる。
あんな話をしよう。こんなことも聞いてみよう。どんな表情で迎えようか等々、浮ついた気分の中でほんの少し動悸も激しくなったりする。
いい時間だと思う。
かといって、そんな悠長なことを思うのは、せいぜい10分が限界である。理由もなく15分も遅刻されたら、仏頂面に変身する。言葉もイヤミが中心になって、血圧も上昇。その後1時間ぐらいは機嫌を直すのに自分自身で苦労する。
わずか数分が「境目」になるわけだ。実に人間の心理なんて移ろいやすい。僅かな時間の差でいとも簡単に上がったり下がったりする。
私だけだろうか。神経質すぎるのだろうか。もっと大らかになるべきか。いや、やはり約束は約束である。特別な事情もなく、ましてや断りもなく平気で遅れる行為をニコニコ許してはいけないと思う。
そういうキッチリした姿勢がこの国を戦後の焼け野原から復興させ、いっぱしの先進国に押し上げた原動力である。
大げさでスイマセン。
なんだかんだ言っても人生後半戦だ。列に並ばす、待たされることもなく、スムーズに過ごしていければ幸せだ。
2012年5月21日月曜日
築地 寿司 食文化
今の世の中、キーワードは「マイルド指向」だろう。ここ20年ぐらいの間に「濃厚な感じ」があらゆる分野から消えていったように感じる。
AKB48の女の子達の顔が全然分からない。こちらが年を取ったせいもあるのだろうが、だいたい似たような顔に見える。なんかノッペリした感じだ。
男性アイドルなんて、私から見れば「松じゅん」以外は区別が付かない。みなさんノッペリ平坦な感じでマイルドだ。
いきなり話が飛ぶが、タバコだってふた昔前から比べれば異様にマイルド指向が進んでいる。
もう25年以上付き合っているラークマイルドだって、私の学生時代には「軟弱だ」とと小馬鹿にされていたのだが、今では「9㎜ってエラいキッツイですねえ」とか言われる。
酒を飲まない若者も増えた。飲んでも低アルコール飲料が主流だ。そもそも草食系なんていう悲劇的な言葉が若い男について回るのだから世の中大きく変わったのだろう。
政治家の顔だってしかり。田中角栄とか大平正芳みたいな風貌の独特な存在感を感じる人はいない。
「ロッキード社が5億円くれるのか、ヨッシャヨッシャ!」みたいな濃厚な感じが全然無い。
良し悪しはさておき、お大尽というか、清濁併せ飲む大人物みたいなオッサンを見かけない。
最近の首相は、腹が痛いからって辞めちゃったり、ママからお小遣いをもらい続けていたり、大震災を前にイライラするだけだったり、なんともズッシリ感が無い。
首相だけでなく大物議員とか言われている連中だって、大して悪いコトもしてなさそうだし(それでいいのだが…)、せいぜい秘書給与をピンハネしたり、国会に無届けでフィリピンで遊んでいるぐらいで、実にチンケな感じ。
一般の企業活動にしても、やれ接待は昼飯だけだとか、酒を飲んでも2次会はダメだとか、細かい話ばかり耳にする。
こんぴらさんだか、天ぷらだか知らないが、コンプラ、コンプラってやかましくなったのも最近の話だ。
コンプライアンスなどという外来語で包み隠しているが、ただの「道徳」みたいなことであり、「恥の文化」を特色としてきたこの国にとって一種の得意分野みたいな話だったはずだ。殊更マニュアル化しないと物事を判断できない人が増えたから重宝されている言葉なんだと思う。
なんかウダウダ書いてしまったが、実は今日は、築地で昔ながらのお寿司を堪能したことを書くつもりだった。
すなわち、イマドキの寿司のノッペリ感と昔ながらの寿司の濃厚な感じをアレコレ書いてみようとしていたら、ついつい最初から脱線してしまった。
で、築地の寿司の話。
先月、このブログでも書いた我が愛すべき先輩である生田與克さん(http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2012/04/blog-post_23.html)にお声掛けいただき、築地に馳せ参じた。
連れて行ってもらったのは、住宅街に構える正統派江戸前寿司の店「S」。
築地界隈に無数にある「築地の寿司屋でっせ、ピッチピチの魚が揃ってますぜ」みたいな空気を漂わせる店とは違い、一見、何の変哲もない街場のお寿司屋さんである。
カウンターの後ろのテレビからは、相撲中継が流れており、お店の造りもオシャレとか和モダンとか、そういう演出は一切無し。
タイムスリップしたような感じと言ったら大げさだが、懐かしく落ち着く風情だ。職人気質の親方が切り盛りしているのだが、堅苦しい感じとか、威圧感はない。
後になって他のお客さんから聞いたのだが、一昔前の親方はかなり恐かったらしい。
「私も同じモノください」
「同じモノなんてないよ」
はたまた、「それください」って言われて「それっていう魚は無いよ」って答えていたとか。
そんな頃に訪ねなくてつくづく良かったと思う。
築地魚河岸のプロである生田さんが馴染みにしているわけだから、連れて行ってもらった素人の私としては、実に有難い展開だろう。
出されるモノすべてがウマかった。ボキャブラリーが乏しくスイマセンが、その一言だ。
生モノより何らかの手を入れたネタが中心。穴子などに使うツメも深い味わい。酢締めの加減も抜群で、つまみでもらったアジも、握りでもらったカスゴも寿司好きが大喜びすることは確実だろう。
締めたキスの握りもシャリとネタの間におぼろがまぶしてあり、ネタの上には甘めのバッテラ。複雑に絡まり合う味が「仕事をした寿司」の醍醐味を感じさせてくれた。
生田さんに連れて行ってもらったおかげで、デカい顔して飲んだり食べたりしていたわけだが、さすがの私も携帯を取りだして画像をカチャカチャ撮るわけにはいかなかった。
イキな世界でヤボは避けたい。でも撮りたかったなあ。イカの印籠詰めなんて芸術的に美しく美味しかったし、コハダの握りもキリッとしていて風情があった。
貝類のヌタもうまかったし、かんぴょうの味付けもしっかり甘く濃く、「これぞ東京の寿司」って雰囲気がプンプンだった。
皮目を焼いたイサキの刺身も味が濃くてウットリだったし、煮ハマグリとか煮タコの味の加減が「江戸前」そのものって感じ。
今の時代、物流事情が良くなって何でもかんでもナマで美味しく食べられるようになったが、やはり仕事を施した寿司の味は別ジャンルの逸品と言って良いと思う。
変な店、ヘタな店だと、手を入れ過ぎちゃって、かえってナマのままで食べたほうが良かったというケースもある。結構そういう勘違いって多い。
その点、こちらの店は、ナマで食べられることを有難がる季節限定のネタでも、過剰になり過ぎぎない程度に手を入れて、逆にネタの旨味を引き出していた印象がある。
何か偉そうに書くこと自体が小っ恥ずかしくなるぐらい、素人がああだのこうだの語ってはいけない寿司だと思った。
私を連れて行ってくれた生田さんは、その昔、この店に入りたくても、魚河岸の重鎮みたいな人がズラッとカウンターに並んでいたから恐くて入れなかったそうだ。死んじゃったり、隠居したり、引っ越したりで、そういうお歴々も激減したらしい。
そんな事情もあって、最近は激しく混み合うことはないそうだ。また訪ねたい私としては嬉しい話だが、考えてみると、これだけの技術を持った店が本当に混雑しないとしたら、それはそれで大きな問題だろう。
ピチピチ新鮮な魚を乗っけた寿司はもちろんウマいのは間違いないが、こうした江戸前寿司は一種の文化であり、これはこれで受け継がれていって欲しい。
とはいえ、正統な仕事をした寿司を出すお店は少数派だし、なかなか食べる機会がない。食べる機会がないから次の世代に伝わらず、文化がすたれていく。
味も雰囲気も仕込みも「濃厚」なこうしたお店は貴重だ。ちなみに先ほど書いたシャリとネタの間に挟むおぼろは、鍋の前で焦げ付かないように5時間かけて作るそうだ。凄い世界ではある。
ファストフード隆盛、デフレ一辺倒な世相が、食文化の世界にも「マイルド化」の波として押し寄せている。なかなか考えさせられる時間だった。
それにしても、最近、ダラダラと長文を載せることが多くなってきた。ちょっとヤボが進んでいる感じ。
もっと軽快に明瞭に書きたいことを書かなきゃいけねえな!!
2012年5月18日金曜日
珍味会
カウンターで職人さんと対峙するお寿司屋さんの醍醐味って何だろう。答えは一つ。「変わったものが食べられる」。これに尽きるのではないか。
変わったものと言っても、あくまでお寿司屋さんワールドの範疇でこちらが満足できれば良い。「創作」という怪しい言葉で、摩訶不思議な野菜料理とかを出されても困る。
で、詰まるところ「珍味」に出会えれば至上の喜びである。
カウンターでチビチビとアルコール摂取に励んでいるわけだから、塩辛とかカラスミとかの珍味サマが小皿にチョコンと載せられて登場すれば最高だ。
このブログでもそうだが、Facebookでも、愛すべき珍味との遭遇をちょくちょく載せている。有難いことに拙文をマメに読んでくれる読者の中には、「珍味道」に馳せ参じたいと申し出る物好きもいて、ひょんなことから「珍味会」を開催することになった。
その日、参加したのは中学高校の後輩2名。3学年下の男と2学年下の男だ。私とはそれぞれが別なルートで交流があったのだが、彼ら同士が中学高校の部活で一緒だったとかで、はじめからとっとと馴染んで飲みはじめた。
2コ下、3コ下などというと、随分年下の印象があったが、それぞれが随分年を重ねたため、後輩達も40過ぎのバリバリの中年である。
ただ、ヤツらが独身だという点には少しムカついた。離婚者ならともかく、未婚者である。未婚者なのに珍味を追求しようなどという思考が既に変態だろう。意味不明か。
さてさて、会場に選んだのは銀座の珍味屋、いや銀座の寿司屋「九谷」。何度かこのブログでも書いてきたが、北海道直送のネタをウリにする一方で、やはり変態気味の店主の趣味?で、数々の珍味が用意されている有難い店だ。
最初の画像はイサキのキモとタマゴと皮だ。
この時期、プリプリと甘味も強いイサキである。当然、内臓系だってウマいはずだ。
白身魚のキモは一般的な飲食店では安直に捨てられることが多いが、もったいない話だと思う。キモポン酢は当然ウマイし、塩焼き、煮つけなんかにしてもトロリとした風味にウッシシな気分になれる。
2枚目の画像は、ブドウ海老のミソとタマゴとなぜかキャビアだ。この店は、特大ボタンエビを常備しているだけでなく、あまり見かけない大きめのブドウエビも用意している。
画像に写っているのは、エビの頭の中のチューチュー吸い出して食べる部分である。どうしたって日本酒の友である。この日もクイクイ冷酒が進んだ。
一見、何の変哲もない貝の画像だが、これがウマかった。レア気味に火を入れたハマグリとアサリの醤油漬けだ。奥に写っている猪口に入った貝の出汁も「滋味滋味~」って感じでウットリした。
ただでさえ、冷酒をカピカピ飲んでいるところに、大将が怪しい液体を出してきた。また何かの出汁を飲ませてくれるのかと思ったら、ヒレ酒の冷酒だった。
これだけの色だから相当な量のヒレを使って作られたものだ。キリッと冷やして飲む経験は初めてだが、これはこれでヤバい味だった。
真冬にアッチッチ状態で「ふげー」とか「ウィイー」とかいながら飲むヒレ酒は最高だが、クールヒレ酒も夏場の「珍酒」として大いにアリだと思った。
客として訪れたフグ専門店の親方にも誉められたと語る嬉しそうな大将の顔が、このお店の面白さを象徴している。
変なモノと言ったら失礼だが、ここの大将は、創意工夫を重ねてちょっとした一品を作ることを単純に楽しんでいる。店主が楽しいのだから、珍味好きにとって楽しくないわけがない。
イバラガニの内子の登場だ。タマゴになる前のドロリとした状態のモノを塩漬けにした珍味界の隠れたスーパースターである。
黒紫色したタラバの内子は都内でも見かけるが、オレンジ色のイバラガニの内子はなかなか遭遇しない。
こいつを舐め舐めすることが私にとっては、この先の人生を前向きに生きていく道標のようなものである。
2012年5月16日水曜日
ダウン症 赤ちゃんポスト
ダウン症の息子の話をずっと書いていない。
やはり、どのように書いても明るい話題になりにくいと思ってついつい触れずにいる。
そういう考え方自体が、一種の差別感情にも似たネガティブな心の在り方なんだろうか。少し鬱々した気分になる。
いかんいかん。もっと前向きにならないとダメだ。
最近のウチのダウンちゃんは、身体能力は結構なレベルに達した。出来なかったジャンプも得意になり、歌に合わせてぴょんぴょんしている。
禁断の「バカ」という言葉もどこかで覚えてきてしまった。私もしょっちゅうそれを言われる。「お前だろう、それは」と切り返したいのだが、シャレにならないから我慢している。
もう2年以上前にこのブログでダウン症児を持った葛藤を書いたのだが、有難いことに今になっても多くの人が閲覧してくれる。
先日も新たにコメントをいただいた。ダウン症のお子さんを授かったばかりのお父さんからだ。ネットで情報を探すなかでこのブログを見つけてくれた。
そのお父さんは、未知の体験のせいで笑えなくなってしまったそうだ。当然だと思う。障害なんか気にせずに笑顔満面で新しい命を受入れられるような人は現実にはいないだろう。
「どす黒い感情」もまだ残っているそうだ。仕方ないことだと思う。周りに伝えきれずにいれば、生まれたばかりの時期は「おめでとう」という言葉を日々浴びる頃だ。キツイはずだ。
おめでたいことには変わりないとはいえ、その時点でそのフレーズを聞くのは私も非常にしんどかった記憶がある。
受入れるかどうか、という視点で語られる障害児との出会いだが、吹っ切れて受入れたように見える人だって、「受入れたくないけど仕方なく」という前置き付きで受入れているケースが多い。
熊本の私立病院がはじめた「コウノトリのゆりかご」、いわゆる「赤ちゃんポスト」が運用開始から5年を迎えたことが先週のニュースで取り上げられていた。
親が育てられない赤ちゃんを匿名で受入れる取組みだが、当然、賛否両論相半ばといった感じだ。私自身、この取組みが始まったことを知った時は、真剣にどのような仕組みかを必死に情報収集した。
正直言ってすがりたい気持ちでいっぱいだった時もある。いや、今だって時にはそうした考えが頭をよぎる。
今も「赤ちゃんポスト」には多くの批判が寄せられる。平たく言えば育児放棄をサポートする形になるわけだから仕方のないことだろう。
熊本市の検証では「匿名での受入れは認めがたい」という結果になったそうだ。役所の目線では当然そういう判断になるだろう。運営にあたる病院側は、断固として匿名での受入れが必要だと強調する。
法律的なことは分からないが、私自身の感情としては、病院側に初志貫徹を貫いて欲しいと思う。「パニック状態の現場」の叫び、深刻さは、役所の調査ぐらいで掘りさげられるものではないと思う。
世間様に非難されようとも、どうにもならない心理に陥った人間の弱い感情は、いとも簡単に親子心中だって考えてしまう。事実、私の周囲でもそういう残念な事件はあった。病院側の姿勢はまさに天の救いにもなり得るわけだから、なんとか維持されて欲しいと思う。
軽蔑されたり、批判されることは百も承知だが、やはり障害児という予想もしなかった事態に直面すると、頭の中にあったはずのタブーとか倫理観は途端に脆いものになってしまう。
コメントをくださったお父さんが言っていた「どす黒い感情」も当然のように心の中から消えてくれない。
私自身、あきらめに近いニュアンスでの「受入れ」は何とかこなしているが、可愛く育ってきたチビを前にすると、ふとした瞬間にネガティブな人様には言えないような感情が頭をもたげることがある。
人間なんて弱い生き物だから感情に起伏があって当然だが、絶望感、厭世感みたいな渦に巻き込まれると、受入れたはずの現実が途端に恐ろしくなる。
こういう心理状態に陥った人を怪しい宗教団体なんかが狙ってくるのだろう。まあ、宗教にすがりたい人自体が、ジャンルやテーマはともかく、自分では受入れきれない厄介事を抱えているわけだから仕方がない。
実際に、私自身もダウンちゃん問題でネガティブな状態になっていると、家人から「教会に行け」と言われることがある。
考えてみれば失礼極まりない話だ。ダウンちゃんが誕生した時に、私の助言や激励を一切無視して、徹底して受入れることを拒否していたクセに、喉もと過ぎたらナンタラで、今になって私のことを心の狭い気の毒な人間のように言うのだから堪ったものではない。
あるデータによると、障害児を授かってしまった親の60%が離婚するとか。スンゴイ数字だが、世間的に障害児を持つ親の話が出てくる時は、当然残り4割のほうの涙ぐましい話ばかりだから、裏側にある暗い事情は封印されちゃう。
そんなもんだろう。
さてさて、そんなイジイジした話ばかり書いていても仕方がない。
5歳半になったわが家のダウンちゃんは、相変わらず異常にゆったりとしたペースで発育している。言語のほうは一向に改善されないし、まだまだ1歳半程度の能力しかない。
とはいえ、最近は以前よりも私とのコミュニケーションも取れるようになってきたから、その分、眼を細めたくなる部分も増えてきた。
それでも不思議なもので、可愛いと思えたり、誉めてやりたいような行動を見ると、逆に程度の低さというか、出来ることのレベルを再認識してタメ息をついてしまうこともある。
結局、情けない話だが、ありのままに受入れるという次元に到達していないのが私の現実なんだろう。魂のレベルが低いのだろうか。
なんかグチっぽい話になってきてしまった。
遺伝に関係なく、古今東西1000人に一人の確率でダウン症児は生まれる。「育てられる人のところにしか生まれない」などという麗しい話を何度も聞かされたが、肯定できるほど私の人間性はこなれていない。
それでも前を向いて進むしかないわけだからイジイジしていても何も生まれない。
せいぜいカラ元気バリバリで日々を過ごすしかないのだろう。
ちなみに似たような環境で苦悶する新米パパさんやママさんには、とにかく「外の力」を遠慮なく借りることを強くお勧めしたい。
抱え込んだら何事もうまくいかない。束の間でも預かってくれるサポートの人や、関係機関、民間の組織など、いざというときの手段をあらかじめ情報収集することが必要だ。
今日は、ダウン症児を授かった人達に向けて、少しでも前向きな気分になるような話題を書こうと思ったのだが、ついつい自分の愚痴に終始してしまった。
まあしょうがない。それが現時点での本音なんだろう。
カッコつけてもしょうがないし、ケセラセラで行くしかないのだろう。
暗い話でスイマセン。
次回からまた能天気な話題に切り替えます!
2012年5月14日月曜日
ニシキテグリが飛んだ日
ニシキテグリは、私がもっとも好きな魚。コイツが撮影できるポイントがあれば、他の用事をさておいても潜ることにしている。英語名はマンダリンフィッシュ。青とオレンジの微妙なトーンが美しい魚だ。
全長は6~7センチほど。一体何をしたいのかと思うほどカラフルだ。顔が変なところも良い。「カラフルなのに変な顔」。実に愛らしい。動きもチョロチョロと跳ねるような感じで可愛いったらありゃあしない。
水深の浅いサンゴのガレ場に生息していることが多く、顔を見せてくれるのは基本的に夕方から日没ぐらいまで。表に出てきて泳ぎ回ってくれないから撮影はなかなか厳しい。
ある日の夕方、日没間際にガイドさんと二人でニシキテグリ撮影に出かけた。ほとんどナイトダイビングに近い感覚になる。
しばしガイドさんとともにコロニーが生息する場所で被写体を探す。この日は、いい感じにオスがチョロチョロ動き回ってメスを探していた。
ひょっとしたら交尾シーンに遭遇するかもと期待に股間、いや胸を膨らませてバシャバシャ撮影していた。
そのうちメスとペアになって、チョロチョロし始めた。
ところが、肝心な時に私のカメラに無情な表示が点灯。「バッテリーがありません」だと。初めて使うカメラだけに、どの程度使えばバッテリーが消耗するかを把握していなかった。大失態だ。その日の朝にフル充電していたのだが、この日3本目の潜水で力尽きたようだ。
そして、無情な表示が灯ってから、わずか1~2分で、ペアになったニシキテグリはガレ場の上に上がってきて、そこから寄り添いながら50センチほど急浮上。しっかりメイクラブをしやがった。
私の目の前わずか1メートルにも満たないような距離で、それも真っ正面でやりやがった。バッテリーさえあれば、どんな初心者でも決定的瞬間を撮影できそうなぐらい整った環境での出来事。
AVの撮影現場に特等席を用意されたのに居眠りしちゃったような感じだ。
カメラ1台につきバッテリーを3個も持参して来ていたのに、つくづく自分の不甲斐なさを痛感する。しばし呆然。
その悔しさを晴らそうと、24時間後の日暮れどき、懲りずにニシキテグリ様の住まいを再訪した。もちろんバッテリーはフル充電済だ。
この日も、そこそこ姿を見せてくれていたが、連日のメイクラブを目撃できるかは時の運。這いつくばって1時間近く、一歩も動かずニシキテグリを観察。
考えてみれば出歯亀ダイバーだ。ニシキテグリにしてみれば実に迷惑な話である。
この日もペアになったニシキテグリがチョロチョロし始めた。よしよし、今日もやりそうだ。スケベテグリめ!などと思いながらも何とか撮影しようと意気込む。
それこそ、刺激的な光を発してしまうストロボを控えるために、しばし撮影をやめて見守るぐらいの余裕を持って「その時」を待った。
ところが、ペアで動き回っていたメスのほうが見当たらなくなった。どうやらその気が失せたようだ。慌てるオス。落着きなくチョロチョロ動き回っている。
ふられてしまったニシキテグリ。私も男だ。ちょっと気の毒に思った。その瞬間、あろうことかヤツは自分だけでガレ場の上に上がってきて、本来なら必ずペアでするはずの交尾のための急浮上を寂しく一人で始めた。
お口あんぐりである。まさにやけっぱちである。パニック状態みたいだ。暴発クンだ。おまけに私のほうに向かって突進して来るではないか。
暗闇の中、本来いるはずのガレ場の中ではなく、広大な水中をライトに照らされながらヒラヒラ泳ぐニシキテグリ。なんとも幻想的だが、なんとも異様な光景だ。
まさに「ニシキテグリが飛んだ日」とでも言おうか、実に珍しい光景だろう。
あたりはすでに暗闇。水中ライトが照らす範囲しか見えない。ほどなく、突進してきたニシキテグリを見失う。
すると、ガイドさんがぎゃーぎゃー騒いでいる。何事かと思ったら私の太もものあたりにヤツがへばりついている。なんてこった!
たぶんヤツは、連日メイクラブの邪魔をする私に「何で邪魔するんだバカヤロー、お前も男ならオレの気持ちがわかるだろ、チクショー!」って感じで猛烈な抗議に及んだのだろう。
ガイドさんが、私にへばりついたニシキテグリをそっと手に取った。パニックになって疲労困憊したのだろう。何とヤツはガイドさんの手のなかでマッタリしている。あれほど臆病な魚、なかなか全身さえ見せてくれない魚が「手乗りニシキテグリ状態」である。
いま思えば、私のほうこそパニックだったのだろう。せっかくの珍事だったのに肝心の画像がたいして撮れていない。手乗りの画像だって、ストロボ光が回っていないし、どうして太ももにへばりついていたヤツを撮影しなかったのか、大いに後悔している。
ヤツの怨念にビビっていたのかもしれない。
やはりヨソさまのセックスを覗くような悪趣味なことはしてはいけないと痛感した。
今回の潜水旅行では、クルマで3時間移動すれば、100%の確率でジンベイザメと至近距離でダイビングできるポイントにも誘われたのだが、面倒だったので断った。実は少し後悔していたのだが、このニシキテグリ事件のおかげで後悔の念も吹き飛んだ。
ジンベイザメの何千分の一程度の大きさしかないニシキテグリだが、私にとってはヤツとの超絶的体験のほうがジンベイよりも魅力に感じる。
まあ、実際にジンベイを見たら、全然違うことを感じるとは思いますが・・・。
今日はついでに、先日アップしなかった画像を何点か載せておきます。クリックすると大きな画像で見られます。
ワイド画像はキャノンのEOS-KISS・X3をSEA&SEA社の防水ハウジングに入れて使用。レンズはトキナーのフィッシュアイズームレンズ(AT-X 107 DX Fisheye)。
全体を見返してみると、一応それっぽく撮影は出来たが、やはり1年半もブランクが開いていたので、自分としては不満が残る内容だ。一昨年秋に石垣島で潜った時のほうがよほどシャープでキリッとした写真が沢山撮れた。
うーん、もっと画期的な画像が撮りたい。今年は時間を作ってもっともっと潜りに行こうと思う。
2012年5月11日金曜日
オリンパスE-PL3と水中写真
ただ、オリンパスでは公式に明かしていないが、同じマイクロフォーサーズ規格の他社製マクロレンズが、このプロテクターで使えるから、その裏ワザ?を使ってマクロ専用機として割り切れば話は変わる。
パナソニック製なのだが、わざわざ「ライカ」を名乗るそのマクロレンズは描写力に優れていて楽しい。小さいし、軽いし、安直に接写に励みたい向きには最適なレンズだ(LEICA DG MACRO-ELMARIT 45mm/F2.8)。
オリンパスの防水プロテクターには、前面のレンズポート周辺にターゲットライトが付いているから、岩陰に潜むハゼとか、物陰の小エビとかを自然な感じで照らしてくれる。
タマゴついでにもう2点ほど紹介したい。
珍味好きな私としては、ちょっと食べてみたい感覚に襲われた。
長くなってしまったので、次回更新時に、今回、水中で起きたちょっとした珍事件を紹介したい。
2012年5月9日水曜日
セブ島雑感
マクタン空港を起点に、いつもはボホール島とかモアールボアールといったダイビングの人気エリアに移動することが多かったが、今回はベタなリゾートでのんびり。
結果的に、マクタンのリゾート滞在でも充分に海も満喫できた。かったるい移動もせずに楽ちんで何よりだった。中年は無理したらイカンので、このスタイルはクセになりそうだ。
ホテルはプランテーションベイリゾート。
http://jp.plantationbay.com/japanese/index.asp
バカでかい敷地だから日々、水中撮影に出かけるには億劫かと思ったが、敷地内を走り回っているゴルフカートを呼べばすぐに来てくれる。かえって歩かずに済んだ。
チップを受け取らないスタイルがラクだったし、スタッフの感じも良いし、バカでかいからちっとも混雑している感じもなかったし、レストランも3つ4つあって総合的に良いリゾートだった。
スタイリッシュとかムーディーといった路線ではないが、清潔だし実に快適だった。同じく近場であるグアム・サイパンの中途半端なリゾートに泊まるならこっちの方がよっぽどいいと思う。
リゾート内のレストランで頼むビールは1本300円程度。街の小綺麗なレストランの2倍以上するのだが、それでも日本のリゾートホテルに比べれば屁みたいなものだから物価の安さは有難い。
バリ島とかタイだったら食事の楽しみもあるのだが、フィリピンに関しては食べるものについてはハナから期待していない。あくまでそれなりに楽しんだ。
滞在中一番ウマかったのは、ホテル特製のマンゴアイスとピーナッツバターチョコアイス。お決まりのマンゴシェイクとかハロハロ(紫芋アイスを乗せたごちゃ混ぜかき氷)も悪くなかった。
そのほかの食べ物としては、毎朝部屋のベランダに運んでもらった甘いデニッシュパンと日本風ラーメンとスイカジュースもウマかった。すんごい食べ合わせだ・・・。
リゾート内のレストランで頼んだツナロールにはベタッとチーズがトッピングされていた。エビキムチロールはキムチどっさりでエビの風味は微塵もなかったし、ロブスターを注文してみれば、平然とウチワエビらしきものが出てきた。そんなもんだ。
まあ、南国でただただ遊んで過ごす時間だから、正直、何が出てきてもニコニコと嬉しそうにむさぼり食って過ごした。腹を壊して苦悶した日もあったが、めげずにワシワシと飲み食い続行。
このリゾートは呆れるほどプールがデカイのが特徴だ。敷地中がラグーンのような海水プールで覆われており、中心に真水プールも用意されている。
ラグーンプールはレンタルカヌーをゆったり漕ぐ人までいる規模。その昔、マイ・カヌーまで持っていたカヌーイスト?である私もレンタルしようかと思ったが、暑いし、他にやることもあったので乗らずじまい。ちょっと残念。
だだっ広いプールゆえに人の気配がないのが有難い。ゴールデンウィークで結構な日本人客が来ていたし、韓国人の団体も見かけたが、プールで人のいない場所を探すのは至極簡単。プールの中で着替えたりしたってへっちゃらなぐらい開放的だった。
毎日潜水三昧で、空いた時間はプールでマッタリ。理想的な息抜きになった。ダイビングに関しては、このリゾートから車で10分ほど移動したショップを基地にした。ショップの目の前の海自体がポチャンと潜ればレア物生物に沢山遭遇できるところで、次回の更新でアップする予定のニシキテグリという魚の画像はすべてそこで撮影できた。
ダイビングショップに通うこと以外には、一度だけセブシティに出かけた。その時ついでに立ち寄ったフィリピン料理のレストランで目撃した生演奏トリオが強烈だった。
俳優の大地康男率いる3人トリオの歌が実に切なげで、何とも言えない稚拙な演奏と相まってフィリピンの夜を熱く演出していた。何もしない右端のマラカスオヤジに萌え~って感じだった。
きっともうすぐ夢に出てくると思う。
話は戻るが、連日、タクシーで通ったダイビングショップは「D-DOWN」という日本人経営の店。パックツアーと提携していないらしく、連休中でも気軽にチャーターベースでのダイビングを引き受けてくれた。
車で3時間かけて移動するセブ南部オスロブのジンベイザメダイビングも一人からでも受付けてくれるそうだ。私は眠いから行かなかったが、ジンベイとのランデブーに行く人達は朝3時出発、昼の12時戻りという強行軍。
今になって思えば、せっかくの機会だから頑張って行けばよかったとチョット後悔している。
ビーチエントリーも専属でガイドさんが付いてくれるから、日没直前に入ったニシキテグリ狙いのダイビングでも、ガイドさんはニシキテグリがぴょこぴょこ出入りするガレ場付近を1時間も水中ライトで照らし続けてくれた。実に有難い対応だった。
ボートでのダイビングも完全チャーターが基本で、例え一人でもまるまるすべてを専属でまかなってくれる。
食事について先ほど書き漏らしたが、今回の旅で一番ウマかったのは、チャーターしたボート上に用意してもらったバーベキューだったかもしれない。
チキンやポーク、小海老の串焼き、アジやイカ、貝類を焼いたやつ、カニも用意してくれた。葉っぱにくるまれた米を頬ばりながら延々と原始的に食べた。食べたというかむさぼった感じ。
この日の朝、腹の調子が悪かったのでビールを積まないで出発したことを死ぬほど後悔した。炭酸飲料のシュワシュワをビールだと思い込む。やたらと気持ちの良い昼下がりの時間を過ごした。
なんかダラダラ書き殴ってしまったが、新しいデジタル一眼で撮影した水中画像は次回の更新時に掲載させてもらいます。
1年以上ブランクが開いちゃったから、やはり自分の眼が「水中モード」になかなか切り替わらなかった。などと、大した写真が撮れなかった言い訳を先に書いておく。
いずれにせよ、天気にも恵まれ、うだるような暑さが心地良くて、日頃の雑念を頭から追いやって過ごした時間はアッという間に過ぎた感じ。
尊敬する人が語っていた「旅は転地療法」という言葉をつくづく反芻してみたくなった。まさに♫Amazing grace! how sweet the sound♫って感じだろうか。
遊んでる時間ってどうしてあんなに早く過ぎるのだろう。1週間があんなに早く過ぎるとは驚きだ。
可憐に咲くプルメリアを見ながら、永ちゃんの「時間や止まれ」がずっと頭の中に流れていた。そんな旅だった。
2012年5月7日月曜日
手抜きでスイマセン
このブログは、祭日を除く平日の週3回を更新スケジュールにしている。好きで書いているのに、更新予定日が祭日だったりすると、ちょっと息が抜けたりして、「モノ書き稼業気分」に浸ったりしている。
いつも、1~2回分はストックを書きためておくのだが、ゴールデンウィークは潜水旅行に行った関係で、書きためることが出来なかった。遊び呆けてしまって情けない限り。
1年以上ブランクが空いてしまった水中撮影は、やはり「目」の感覚がなかなか戻らなかった。3日目ぐらいから、ようやく海の中の小さい生物を見つけ出す感覚が戻ったが、それまでは結構難儀していた。
まめに潜るようにしないと、せっかく四半世紀以上続けてきた趣味の世界から遠ざかりそうだから、性懲りもなく今年は何度も潜水旅行計画を立てようと決意している。
で、実は今日の分のストックが尽きてしまったので、手抜きながらアーカイブ、すなわち過去記事を紹介することにします。
★プチ愛国心
http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2008_06_01_archive.html
★GORO
http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2009/05/mixigoro.html
★モノの値段
http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2009/07/blog-post_22.html
★橋下弁護士
http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2007/12/blog-post_15.html
2012年5月2日水曜日
寿司屋という世界
雑誌で「イチオシの寿司屋」なんて特集が載っていると、つい買ってしまう。行くつもりもないのにパラパラ眺める。
国民食である寿司の世界は実に奥深い。いい加減なお兄ちゃんが作る握り寿司ならぬ「乗っけ寿司」、機械がせっせとシャリを作る効率性重視の回転寿司、はたまた銀座あたりでアホほど高いお勘定を取る店や、歌舞伎町あたりには極悪ボッタクリ寿司もある。
出前中心の住宅街の店、立ち食いの店、持ち帰り専門のチェーン店とか、種類や形態は実に多岐にわたる。
大人の男が、しっぽりと飲み食い、ゆるりとした時間を過ごすパターンの店となると、おのずと限定される。その人にとって居心地が良ければ良い店だし、その逆も真なりだ。
思いきって言ってしまうが、安さをウリにする店は別として、一定水準以上の店に限れば、ウマいのマズいのという議論は不毛だろう。
定義は難しいが、私が勝手に思っている「まっとうな店」であれば、居心地が良いか悪いか、相性が合うか合わないか、それだけだ。
そこそこの値段を取る店で、そこそこの雰囲気を維持して、そこそこ器なんかにも拘って、それなりに固定客を掴んでいる店であれば、イマドキの物流事情を考慮して変なネタが置いてあることはない。
ついでに言えば、腕の劣る職人、志の低い職人がそんな店を切り盛りしているはずもない。
ネットなどのクチコミサイトでは、寿司屋に関しても好き放題書かれているが、カウンターを挟んで一種独特のやり取りが前提になる寿司屋を評するのにあれほど無意味なものはないだろう。
ランチの握りを1回食べた人が、シャリがどうのマグロの質がどうのなどと書いていると、片腹痛いというか、おぞましさしか感じない。
そういう書き込みをする人に限ってコスパがどうのとか、再訪は無いなどとブツブツのたまう。あれは一体何なんだろう。
お寿司屋さんの良し悪しなんて、一度や二度食べにいったところで決められるはずはない。季節ごとに置いてあるものは違うし、職人さんの「引き出し」は素人が思っている以上に豊富だ。
鮮度なんて良くて当たり前だ。新鮮さを前提に食べ頃や食べ方をどう工夫するか、一手間、二手間のかけ具合はどうか、客の希望に添ってどの程度アレンジしてくれるのか、1時間なり2時間座っている客の時間をどう演出するか、など複雑な要素が絡み合って、良い店かどうかが決まる。
そこに個人的な好みや相性という感覚的なものが加わるのだから、ちょっとやそっとで良し悪しなんて判断できない。
私の場合、お寿司屋さんに招待されるのが苦手だ。要は自分のペースで楽しめないし、その店がどんな面白い食べ物を出してくれるかも分からない。招待されている以上、あれこれ注文もしにくい。
「この店、星付きの人気店なんですよ」と言われても、天体観測に興味はない。人気といっても、どんな階層の人達からの人気なのかが分からないから判断しようがない。
仕方なく黙って座ってブロイラーみたいな気分で過ごす。だからお呼ばれする店を選ばせてもらえる場合には、お寿司屋さんは勘弁だ。
お寿司屋さんのカウンターに座る意味って何だろう。人と人とが向きあって、互いの様子をうかがいつつ、ウマいモノ追求のためにキャッチボールをするわけだ。
職人さんを相手にオススメをたずねたり、こちらのわがままを聞いてもらったり、勝手気ままなペースで飲み食いできるのが最大の利点、いや目的だ。
漫然と店側の都合に合わせたモノを出されるのなら無意味だ。だから、おまかせ一辺倒のいま流行の店には興味が湧かない。魚のことや旬の知識も不要だし、お気楽でいいのだろうが、間違いなく店も客も育たない。
客だって、恥をかいたり、痛い思いをしながら成長?する。私自身、ずいぶん色んな目にあってきた。カウンターで楽しく過ごせるようになりたいから耐え忍んで!?きた。
でもそういう経験は必要だろう。寿司屋のカウンターで食べるという行為自体が、日本独自の食文化の形でもあるわけだから、客だって多少の経験は必要だ。ファミレスのように簡単にはいかない。
そんなの面倒だと言う人は、素直にテーブル席とか個室に陣取ればいい。そのほうが専有面積だって大きくなるし、気ままにそこそこ美味しいものを食べられるから、それはそれで悪いことではない。
さてさて、どんなに評判がよい寿司屋でも、客である自分がその店に慣れていなければ、その店の良さは分からない。その店より評判が劣ろうとも、自分にとって馴染めている店であれば至福の時が過ごせる。
なんかエラそうに書いているが、居心地が良くて、面白いモノが食べられて、そこそこのお勘定でも惜しくないと思える店を見つけるためには、それなりに大変な思いもする。
何度か通ってみて、店のスタイルや特徴とかウリを知ったうえで、店主との呼吸や客層まで含めてしっくり来るかどうか判断するしかない。
いわばアナログ的な作業を強いられる。私自身、実際にこれまでに数え切れないぐらい「お寿司屋さん探検」をやってみた。
素晴らしかったがアホほど高すぎた店もあったし、極端にネタが少ない店もあった。押しつけがましい店、店主が教祖サマみたいになっちゃってる店、客層が悪すぎる店、雑な店、汚い店などなど、しっくり来る店は中々見つからない。
長く通い続けられる店はやはり少数だ。
で、長く通い続けられる店に行くと、ついつい変なモノを頼んじゃったり、余計な細工を頼んじゃったり、結局、エラそうに言いながらちっともイキな客じゃない状態になる。
先日は高田馬場の鮨源で、まるまる太ったホタルイカをバター焼きにしてもらった。ニンニク醤油をまとわせて食べることが多かったのだが、この日はバターを選択。
正直、中年の味覚には、ちょっとクドくなってしまった。
でも焼酎がグビグビ進んでそれはそれでアリだったと思う。
よく分からないまとめ方になってしまったが、変なモノというか、自分専用にアレンジしてもらった一品なんかを楽しめるようになったら、お寿司屋さんはこの上のない幸福空間になる。