2020年7月31日金曜日

ギャランドゥ 焼きそばUFO


50代も半ばになると若い人とのジェネレーションギャップは想像以上である。私も感覚的には昔と同じつもりでいたが、若者から見れば異人種レベルの古い人だ。

社会人になった時、まだインターネットは無く、一人一台のパソコンがデスクに置かれていたわけでなく、携帯電話も無かった。

新人とはいえ社会人だから一応は大人である。大人になっていた時点でそんな環境だったわけだから今の若者から見れば原始人みたいだ。

先日、若者との会話の際に「ギャランドゥ問題」が勃発した。我々の世代にとっては単なるヒデキの歌である。わがオジサマバンドの昨年のライブでも昭和メドレーの中にギャランドゥを盛り込んだぐらいポピュラーだ。



もちろん、私だってそれなりに世情に明るいから、ギャランドゥという言葉がヘソから下の毛を表す隠語として使われていることは知っている。

「あの人のギャランドゥは結構凄いな」「毛深いねえ、ギャランドゥだね~」といった使われ方である。そのルーツがヒデキの水着姿に由来することも知っている。芸能人水泳大会のヒデキはワイルドだった。

ちなみに、ネット上で「ギャランドゥ」を検索したら1ページ目の上位に「ギャランドゥの画像(1,140,000件)」というシュールな検索結果が表示された。


もちろん、ヒデキ・バリバリの画像もテンコ盛りだった。ヒロミ・ゴーがまだまだ奮闘しているのにヒデキがこの世にいないことがつくづく残念である。

もっともっと長生きしてもらって、プールサイドで白髪交じりのギャランドゥを披露してもらいたかった。

ちなみに私のギャランドゥも下の方に行けば行くほど白いのが目立つようになってきた。以前は引っこ抜いていたが最近はあきらめ気味である。ワイルドだろう~って言いたいところである。どうでもいいか。。。

ちなみにウィキペディアに載っていたギャランドゥの語源解説が詳しかったので、画像を貼っておきます。



さてさて、若者との会話を「ギャランドゥ問題」とまで表現したのには理由がある。

私が驚いたのは、まず、その若者がヒデキを知らなかったこと。次にギャランドゥが歌であることを知らなかったこと。そして極めつきはギャランドゥを身体の部位を表す正式な用語だと信じていたことである。

つまり、マッスルとかフェイス、ヒップ、スキンといったカタカナ表記の普通名詞だと認識していたわけだ。

ギャランドゥの出世?ぶりにオジサマとして卒倒したくなった。草葉の陰でヒデキはどう思っているのだろう。

まったく話は変わる。

カップ焼きそばUFOとピンクレディーの関係を知らない人が多いことにも驚いた。我々の世代にとってUFOはピンクレディーの大ヒット曲とタイアップして一気に普及した記憶がある。


ウィキペディアで調べてみたら焼そばUFOが発売された翌年あたりにピンクレディーとコラボしたそうだ。

私は勝手に歌とカップ焼きそばがメディアミックスのような形で同時に誕生したのかと思っていたが、実際はたまたまだったらしい。

とはいえ、後発商品だった焼そばUFOが爆発的に普及したのはピンクレディーの影響だったことは間違いない。



UFOはペヤングと並んで今の日本中どこのコンビニやスーパーにも置かれている定番商品だ。揺るぎない地位を占めている。

ピンクレディーとの関係性を若者が知らないのも当然だが、勃興期を知るオジサマとしては歴史の風化がちょっと淋しい。

願わくば、とっくに還暦を過ぎたミーちゃん、ケイちゃんのお二人には生涯に渡って焼そばUFOが贈呈され続けて欲しい。

2020年7月29日水曜日

函館 ウニ イカ イクラ

連休は函館でぶらぶらしてきた。前の週の段階でマイルを使った無料航空券が予約できるところを探して都合の良い便が取れたのが函館だった。


久しぶりの遠距離旅である。函館は過去に10回以上、いや20回ぐらいは訪ねた場所だから、旅の醍醐味である「知らない街を歩く」という点では楽しみに欠ける。

でも、勝手知ったる場所だから効率よく過ごせる利点もある。とくに目的も無く、ふらふら散歩したり、レンタカーであてもなくドライブしたり、ウマいものを食べまくって過ごした。




泊まったのはセンチュリーマリーナ函館。昨年出来たばかりの温泉付きの宿。鉄分バリバリの茶色い温泉としょっぱい温泉の2種類を備えていてアッパレだ。

とくに目的が無い旅とはいえ、この時期はウニが美味しい季節だから、ウニざんまいは外せない。

最初の晩にさっそく「うにむらかみ」に向かう。朝市エリア内の本店の他に駅のそばに新たな支店が出来ていたのでそちらに向かう。

函館界隈では高い部類の店だが、その分、極めて真っ当な無添加ウニを揃える専門店である。昔から何度も通っているが、支店が出るまでになるのも当然だと思う。






お店の名物であるウニの佃煮とウニの味噌和え、ウニ刺し、塩水ウニ、焼ウニだ。こんなものを並べて冷酒をカピカピ飲んでいると、つくづく日本人に生まれて良かったと痛感する。

箸休め用に注文したイカ刺しもしっかりハラワタ付きである。ゴロとも呼ばれるハラワタを生のままで食べさせてくれるのがイカの街・函館の特徴だ。



生のままで食べるイカワタはクリーミーで酒肴としてはMVP級の一品だ。珍味業界の大谷翔平と呼べるぐらい得がたい存在。

このブログでも随分昔からベタ褒めしている。


以前だったら、しっかり飲んだあとのシメは迷うことなくウニ丼を選んだが、寄る年波のせいか、今回は石焼きウニ飯という変わったメニューに挑んでみた。



石焼きビビンバ的な食べ方だ。これがウマかった。しっかり無添加ウニが盛られたご飯をアチアチの石焼き器の中で混ぜ合わせる。マズいはずがない。優しい味わいにホッコリした。

次の日は天気にも恵まれレンタカーでふらふらと人のいないエリアを目指してドライブ。対岸の青森・大間と並ぶマグロの本場・戸井のほうまで走る。

夏の陽を受けて光る海を眺めながら、のどかな海岸線を走る。心が洗われる。コロナの不安をひととき忘れられるノンビリした光景の中に身を置くことは精神衛生上とても良いことだと痛感。



その後は立待岬や周辺エリアを人の少ない時間を狙ってウロウロする。コロナ以前の大らかに過ごしていた感覚を思い出したような良い時間だった。

ウニざんまいの食事の他にもアレコレと食べまくった。二日目の朝は朝市の中の適当な店に入ってイクラ丼ならぬイクラ重にムホムホした。



店の名前は忘れてしまったが、1500円以上のメニューを注文すると茹で毛ガニサービスというフレコミに惹かれて入店。

運良く、茹でたて間もないミソもキチンと黄色い状態の小ぶりの毛ガニが無料で食べられたからバンザイである。



ついでにホッキも頼む。ちっとも“ついで”では無い存在感に興奮した。

ウニとイクラ。オジサマ族にとっては不健康シリーズである。痛風を招くプリン体が多いのはウニだ。イクラはさほど問題ない。とはいえ、イクラは高コレステロールの代表格である。

要するに悪い要素はそれぞれ違うということ。私の健康法?はウニをしこたま食べたら翌日はイクラをがっつり食べる、その翌日はまたウニをどしどし食べるというメリハリに気をつけることだ。

これならウニとイクラのドカ食いをセットで続けるよりも日によって片方づつしか食べないから安全!?である。



というわけで、3日目の朝はまた朝市エリアに行って、前の日はいっさい口にしなかったウニを頬張ってきた。

無添加ウニを使ったウニ丼をウニ2倍盛りで頼める「あけぼの食堂」を選んだ。この日は夏期限定のエゾバフンウニも追加料金で選べるということで、そちらを選ぶ。

こういう頼み方をすると都内中心部の高級ウナギ屋の上等な鰻重よりもヘタすると高い値段になってしまうのだが、富豪を目指す私としてはここでケチってはいけない。



ニシンの焼き物とイカソーメンも注文して朝っぱらから豪勢な一食になった。つくづく健康でいることは大事だと思った。

ウマいものを食べ、綺麗な景色を眺め、のんびり温泉につかる。こういう喜びを久しぶりに味わえたことが嬉しかった。

ウイルスを正しく怖がり、正しく注意しながら時々はこんな時間を過ごせるようにしたい。

2020年7月27日月曜日

健脚になりたい 伊能大先生


暑くなると散歩に励みたくなる変な性癖がある。汗をかくせいで「運動したんだぜ」という錯覚を味わえるからだと思う。

先日、30年ぐらい前に住んでいたエリアを散歩してみた。私が24才の頃から3年ほど住んだマンションの中に勝手に入ったりしながら当時を懐かしんだ。

そのマンションの横は公園で、盆踊りの頃には爆音で騒ぎ立てるのが迷惑だった思い出があるのだが、何とその場所に「トキワ荘」が復元されていて驚いた。



マンガの聖地である。昭和の人気漫画家がこぞって暮らしたアパートを復元した観光施設である。町興しにつなげようという取り組みだ。

私が住んでいた頃は、トキワ荘のトの字も聞こえてこなかったが、公園の名前もトキワ荘公園になり、通りの名前もトキワ荘通りに変わっていた。

周辺には昭和レトロを感じさせる雑貨屋やカフェも出来ていて急な変わりようである。あざとい、いや画期的な取り組みだろう。人出も多くなって街に活気が出ればいいことだ。

別な日、杉並区内の実家を訪ねる機会があった。今は幹線道路沿いのちょっと騒々しいマンションに暮らす私としては、実家の庭の緑を見回すと、静かな環境に心が洗われる。



都心のど真ん中に住んで便利さを享受するのも快適だが、本当は緑の多い静かな環境に身を置く方が人間らしい暮らしなのかもしれない。

老後はどんなところで暮らそうかと結構真面目に考えている私にとっては悩ましいテーマである。

実家の周辺を散歩するのも楽しい。なんてったって子供の頃に過ごしたエリアだ。事細かに思い出が甦ってくる。

ヨソ見しながら自転車をこいでいて激突した電信柱、デカい迷い犬に追っかけ回された路地、冬眠中のカエルを見つけて引っ張り出した空地、ロケット花火を打ち込んでみた建設現場の今の姿など、いろんな出来事を思い出しながら歩くのが楽しい。

ここが自分のホームタウンだったのだと痛感する。大人になってからは根無し草みたいな暮らし(大袈裟か・・・)だから、郷愁に浸りながらガラにもなく自分の人生を問い直したくなった。

話は変わる。

そんなセンチな散歩ばかりでは楽しくない。馴染みの無いエリアをキョロキョロしながら歩くのも散歩の醍醐味だ。

先日は、深川界隈を歩き回った。時代小説ばかり読むようになったから、江戸の町人達に思いを馳せながらの楽しい散策だ。




昔から残る仙台堀川沿いを歩いたり、無造作に置かれていた芭蕉像に驚いたり、古いお寺の由緒書きに見入ったりするのが楽しい。

小説の世界に頻繁に登場する深川不動や富岡八幡あたりは、数多くの記念碑や史跡案内板があって飽きない。

かの伊能忠敬大先生が全国測量に出発する前に安全を祈願したという話などを読むにつけ同じ場所に今現在自分が立っていることに感動する。



あの時代に50才から全国行脚したわけだから超人である。事業家として結構なリッチマンだったそうだから、私だったら隠居したら遊んで暮らすはずだ。

ところが伊能大先生は、隠居してから天文学などを学び始め、ひいては17年の歳月をかけて全国を測量しちゃう。まさに傑物。

もちろん。徒歩である。電車もバスも無い時代だ。道だって未舗装でスニーカーのような便利なものも無い。

江戸時代の旅は言うまでもなく徒歩である。「男十里に女九里」と言われたように、普通の男性は1日に40キロは歩いたわけだ。

当然、街灯は無いから日が出ている間にそれだけの距離を毎日毎日歩いた。ちょっと驚異的である。

140キロも歩くのは私には無理だ。もし歩けてもその後数日間は寝込むだろう。いや死んじゃうかも知れない。

それに比べて伊能忠敬大先生の健脚ぶりはスーパーマンとしか思えない。サロンパスも無い、ユンケルも無い、ポカリスエットもウォークマンも無い、休憩所に生ビールも無い。

一例をあげれば、北海道の根室のほうまで半年もかけて歩いて行ったらしい。あの時代だ。ずーっと未開の地を歩いて行ったわけだ。いったい何が彼を突き動かしたのだろう。

ほんの1時間も歩けばヒーヒー言ってしまう私としては、今後の散歩の際には常に伊能大先生を思いながら気合いを入れようと思う。

伊能大先生の話は、20年ぐらい前に映画化されたことがあったらしいが、もっと脚光を浴びなきゃいけないだろう。大河ドラマの主人公にすべき一人だと思う。






2020年7月22日水曜日

映画の話


いっぱしのオジサマのくせして映画「今日から俺は!!」が観たくてしょうがない。コロナにビビッって映画館はつい敬遠したくなるが、ガラガラの日を狙ってみようと思う。



昨年、テレビの連ドラで人気になったシリーズだ。私も幸か不幸かたまたま1話目を観たらハマってしまった。毎週毎週楽しみにしていたから映画版を楽しみにしていた。

さてさて、最近は映画館に足を運ぶ機会は激減した。Amazonプライムなどのネット配信のおかげで、家にいながら手軽に映画が観られるようになったのも理由だ。

このブログでも書いたが昨年ぐらいから突発的に時代小説にハマってしまったせいで、自宅で観る映画も歴史モノばかりになってしまった。

この1ヶ月ぐらいの間にも週末を中心にアレコレ楽しんだ。岡田准一が石田三成に扮した「関ヶ原」や堤真一が大石内蔵助をコミカルに演じた「決算!忠臣蔵」、市川海老蔵が熱演した「一命」、阿部寛が主演の「のみとり侍」、ほかにも玉木宏・石原さとみの「幕末高校生」というシュール?な作品も観た。



海老蔵の「一命」がとくに印象的だった。もう10年ぐらい前に公開されたそうだが、切腹をめぐる実に重たい話で見応えがあった。瑛太、満島ひかり、役所広司もさすがの演技である。

「関ヶ原」は正直さほど面白くなかったが、家康役の役所広司が印象的だった。もはや日本映画は「役所広司が出ていれば安心!」と断言しちゃっていいかもしれない。

意表を突かれたのが「のみとり侍」だ。何の予備知識も無く、あらすじも知らずに適当に選んで観てみたのだが、まさに“お口あんぐり状態”で見入ってしまった。



阿部寛やトヨエツがいにしえの日活ロマンポルノもびっくりのエロシーンを連発する映画だった。

セックスシーンはコミカルに描かれているので「爽やかエロ」ではあるが、かなり激しい描写もある。中途半端ではない潔さ?に感心してしまった。

最後は松重豊演じる殿様が迫力ある演技でどんでん返しに持って行く痛快なストーリーである。

なんとも妙な感じの作品だったが、逆にそれが他の映画とは比べられない独特さに繋がっていた。素直に面白かった。

Amazonプライムで観られなくなっていた「柘榴坂の仇討」はレンタル落ちのDVD700円ぐらいで見つけたので、わざわざ買って観た。



元は短編小説だから、映画ではちょっとストーリーを膨らませすぎた感じもしたが、情緒的なトーンが貫かれていて良かった。

率直に言って小説のほうが胸にグッと来た。単純に長いか短いかという部分が影響していると思う。

映画も闇雲に2時間という枠に囚われず70分とか80分ぐらいで仕上げちゃったほうが名作になる話は多いのかもしれない。

「柘榴坂」では主演の中井貴一が良かった。詐欺師を演じた「嘘八百」、総理大臣を演じた「記憶にございません」といった現代劇も良かったが、時代劇に出ているときの安定感はさすがだ。

20年近く前の「壬生義士伝」でも切なさと凜とした空気を兼ね備えた演技に泣かされた。もはや日本映画は役所広司と中井喜一、あとは佐藤浩市あたりが出ていれば安心である。

なんだかヘンテコなオチになってしまった。

2020年7月20日月曜日

酢の世界


先日、中華料理屋さんで五目焼きそばにビシャビシャと酢をかけて食べていたら同行者に驚かれた。

驚かれたことが私には驚きだ。ソース焼きそばではない。中華料理屋の五目焼きそばである。酢をドバドバ投入するのは標準的な食べ方だろう。



あの味付けはお客さんが酢をぶちまけることで完成するように計算されている。たぶん違うが私はそう信じている。

なるべく麺にはかからないように餡のほうにドバドバかける。猫舌の私は熱い餡を冷ましたい意味もあってビャービャーと酢を入れる。

時々酢を入れすぎてムセる。でも後悔はしない。あれほど酢と相性の良い食べ物はないのではないか。

お酢のことは子供の頃から愛していた。小学校高学年の一時期は、炊きたてご飯に酢をジョバっとかけて食べるのにハマったこともある。すし酢でない。普通の穀物酢をである。



いま思えば酸っぱくて食べられそうにないが、あの頃は美味しく感じた。

今もすし酢を多めに使った濃い味の寿司飯であれば、ネタが無なくてもそれだけでいくらでも食べられる。



お気に入りのすし酢だ。これを基準より多めに使ってやたらと硬めに炊いたご飯と混ぜれば、私にとってはエクスタシーを感じる食べ物になる。

おかず無しでも2合は食べられちゃいそうだ。さすがに物凄く太りそうなので泣く泣く我慢している。

酢の物も好きだ。もずくやメカブ、じゅんさいも好きだが、あれも酢の物だから好きなので、違う味だったら見向きもしないかも知れない。

生のタラコを酢にピトっと浸して食べるのも好きだ。これについては五目焼きそばのように同好の方々が見つからない。人に言うと珍しがられる。



偏食だった私の祖母がやっていたのを子供の頃にマネして好きになったのだろう。
ブキミだと思わずぜひ試していただきたい。

焼きタラコではちょっと違う。生が一番である。少し炙ったタラコはぎりぎりセーフである。酒のツマミにもなるし、ご飯のお供には最高だ。高級な酢や凝った酢ではなく、一番ベーシックな穀物酢を使うのがポイントである。

ラーメンに酢を投入することを知ったのは大学生の頃だった。並んでラーメンを食べていた友人が突然、酢を入れ始めて驚いた覚えがある。

恐る恐るマネしたらウマかったのでちょっと感動した。白米に酢をかけるほどの酢ラバーだったのに知らなかったことを後悔した。

私の場合、酢を入れるのは醤油系のラーメンだけだ。あとはあまりウマいとは思えない。あっさりした喜多方ラーメンみたいなタイプが良い。半分ほど食べて飽きてきたら、酢をドバドバいれて変化をつける感じだ。 

酢を愛する人々の好みはさまざまみたいで、唐揚げやカレー、納豆、チャーハンなどに酢を当然のようにかける人もいるようだ。

試してみたら意外にハマっちゃうような組み合わせは結構あるのだろう。皆様もぜひオススメ情報をお寄せください!

酢には脂肪の蓄積を抑えるダイエット効果や血糖値の上昇を抑えたり疲労回復効果があるそうだ。

おまけに高血圧やがんの抑制効果もあるとか。良いことだらけである。
  
一応、胃を荒らしたり、歯に悪いというデメリットもあるようだが、そんなものは付き合い方次第である。空腹時にいきなり酢を飲まなきゃいいだけだし、歯が溶けちゃうほど口の中を酢だらけに出来るはずもない。

効能だけに注目してこれからもドバドバと付き合っていきたい。

2020年7月17日金曜日

牛肉「コバウ」「ロウリーズ」


長生きしたいか。誰もが一応は長生きしたいと漠然と考える。ただ、今の時代は長生きといえば90才や100才という凄い話になる。

果たしてそこまで生きたいのか。何とも微妙だ。健康で経済的に問題なく何の憂いもないなら100才だって結構だが、現実はそうもいかない。

となると、長生きの定義はつくづく難しい。たとえば、健康に問題なく経済的にもそれなりに困らない状態で70才の時にポックリ死んじゃうケースと、困窮して長い間寝たきりになってしまった90才とではどちらが良いのか。

一概には言えないのかも知れないが、今の私なら前者のほうが幸福だと思う。多くの人がそういう考えだろう。

日本人の平均寿命が50才を超えたのは大正時代からだそうだ。それまでは70才だって充分過ぎるほど長寿だったわけだ。江戸時代なら今の私だって立派なご隠居年齢である。

日本人が長寿になった理由はいくつもあるが、肉を食べるようになったこともその一つだという。動物性タンパク質はいくつになっても大事な要素である。

健康的に長生きした人は晩年も肉をしっかり食べていたというのはもはや常識だ。私の祖父も死ぬまでステーキを食べていた。

もちろん、健康に良い肉は赤身肉である。肉といえどもベーコンやソーセージは塩分や添加物のせいで逆に寿命を縮めるらしい。

私はステーキだったらソーセージのほうが好きだから要注意である。ステーキや焼肉は滅多に食べなくなった。牛肉が重たく感じてついつい敬遠してしまう。




先日も付き合いで仕方なく焼肉屋に出かけたが、霜降りチックな色の肉を見るだけでゲンナリしてしまう。実にだらしないと思う。

銀座にある「コバウ」という店だ。上等な肉を揃える感じの良い店だが、私の中では「上等な肉イコール脂っぽい」という思い込みがあるから、この日もテールの煮込みとかチャンジャをツマミに酒を飲むことに専念してしまった。

別な日、久しぶりに溜池山王にある「ロウリーズ」に出かけた。プライムリブ、すなわちローストビーフが人気の店だ。

詳しくは知らないがローストビーフは、いわゆる蒸し焼きで作られるもので、カロリーの点でステーキよりもヘルシーだという。

確かに赤身肉中心のここのプライムリブなら、私もゲンナリするどころかぺろぺろ食べてしまう。

「牛赤身肉の蒸し焼き」。そう言ってしまうとマズそうだが、この店のプライムリブはサッパリソースと西洋わさびの組み合わせが絶妙で素直に美味しい。



40年前は1キロのステーキを余裕で平らげた私である。今だって脂っぽくなくて好みに合致すればドカドカ食べられるわけだ。

450グラムほどのデカいヤツだって骨と脂の部分を除けたら300グラム弱だろう。食べた部分は赤身だから食後にクドい感じも残らない。

こういう赤身肉を定期的に食べればタンパク質摂取の点では良いのだろう。でも、自ら率先して牛肉を食べに行く気分にはならない。肉は肉でも鶏や豚のほうに目がいってしまう。

そんなことでは長生きは無理だと思うが、さっき書いたようなヤバい長生きならゴメンだから、それはそれで問題ないような気がしてきた。

とはいえ、今の私の行動範囲である中央区界隈には評判の高いステーキ屋がたくさんあるから、せっかくだから時々は赤身肉を食べに行くようにしたい。

最近聞いた話では鉄分が不足すると貧血だけではなく、うつっぽい症状にもつながるらしい。

変な世の中になってしまったせいで、最近は気分があがらないことが多い。鉄分をしっかり摂って気分を晴れやかにしようと思う。


2020年7月15日水曜日

寅さんイズム



この7月に寅さんシリーズの総集版とも言える「男はつらいよ・お帰り寅さん」のDVD発売に合わせて、Amazonプライムビデオでもレンタル視聴が始まった。

私もこの正月に映画館に行って観ようと思っていたのに、面白くなかったという感想を何人かから聞かされたので何となく見そびれていた。

この前の週末、じっくりと観てみた。ウルウルした。いい作品だった。面白いつまらないといった次元を超越した奇跡の映画だと感じた。

50年かけて積み上げられた最終形である。世界中探したってそんな作品は無い。

前田吟・倍賞千恵子演じる「博とさくら」などは50年前から同じ人が同じ役を時系列に沿って演じている。凄いことだ。



満男役の吉岡秀隆だって10才になるかならないかぐらいの頃からのキャリアだ。子供の頃から今の疲れた中年役まで本人がそのまま演じているのだから説得力という点ではピカイチだ。

この作品では満男の描かれ方が生命線だ。フニャッとした中年男とはいえ、随所で周りを気遣った痩せ我慢ぶりをみせる。

つまりそれこそが寅さんイズムである。満男の生き様の中に寅さんはしっかり生きているという意味合いがあるのだろう。

リリー役の浅丘ルリ子もすっかりお婆さんになっていたが、オカマバーらしき店のオーナーという設定が絶妙だ。上の画像が現在、下が回想シーンだ。




オープニングのテーマ曲は桑田佳祐が歌っている。ネット上のレビューを見ると随分と叩かれているが、あれはあれで良かった。


渥美清さんが亡くなったことでプツリと終わってしまったシリーズの最新版が満を持して作られたわけだから、オープニングにああいうドッキリ?を入れることは作品を見る前のわくわく感を高めてくれる。

ちゃんと本編最後にはキチンと本家・渥美清が歌うテーマ曲が流れるわけだから、桑田バージョンはあくまでこの作品がシリーズの中で特殊な位置づけにあることを際立たせていた。

寅さんシリーズの全作品を漏れなく観てきた私は、ややマニアックなファンである。そういう立場から言えば、この作品はケジメみたいなもので、作ってもらっただけで感謝の一言だ。

満男の中年っぷりが良かった。高校生の娘までいる。さくらと博はどう見たってお婆さん、お爺さんである。感慨深い。




満男の青春時代のマドンナ・後藤久美子の演技力はご愛敬だが、あの幼かった“泉ちゃん”本人が思いっきり老けた姿で登場したことに意味がある。

母親役の夏木マリの魔女っぽい感じが相変わらずだったのは嬉しかったが、父親役がなぜか寺尾聰じゃなかった点は残念だった。

あらすじは平凡だが、平凡だからこそ作品がジンワリ染みた。ちょっと大袈裟だが、生きることって途切れない一本のレールをなぞりながら歩いて行くようなものだと改めて痛感した。

思い出って何となくその部分だけが固有の独立した存在のように捉えがちだ。でも考えてみれば、思い出は決して人生の断片ではなく、いま生きていることそのものが思い出の延長線なんだと思う。

なんだかそんなセンチな感慨にふけりたくなる作品だった。

もちろん、こんな感想はシリーズ全作品を何度も繰り返し観たようなオタク的ファンだからのものである。

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2012/10/blog-post_26.html

寅さんシリーズに詳しくない人が観たら退屈な作品だと評されてしまうだろう。あくまで寅さんファンのための作品だと割り切った視点で観ることをオススメする。

もちろん寅さんは回想シーンでのみ登場する。映画を観た人のレビューには寅さんの消息に触れていないことを消化不良だと指摘する声もある。

分からなくはないが、その部分を追究するのはヤボである。それこそ「それを言っちゃあおしめえよ~」である。

オープニングで桑田佳祐が歌い出すこと自体が寅さんはもういないというメッセージなんだろう。

今日は最近観た映画の話をいくつか書くつもりが、結局、寅さんだけに終始してしまった。

2020年7月13日月曜日

アマゾン パパゾン


娘が19才になった。来年は成人だ。親バカまっしぐらな私としては既に感慨深い。

私に対しては反抗期もまったく無いまま育ってくれた。今もちょこちょこ誘いが来る。

娘の小遣いでは行けないような高いスイーツ屋にスポンサーとして連れていかれたり、いわば打ち出の小槌みたいに扱われているのだが、だとしても声がかかるのは嬉しい。



これは銀座にある「ボンボヌール」というカフェで出てきたスイーツだ。なんだか煙がモクモクしていた。

あんころ餅や麩まんじゅうのほうが遙かにウマいと思う私にとっては単なる高いだけの店である。

でも娘がニッコニコになれば親バカな私は満足だ。お勘定にビックリしたことは顔に出さずに、帰り際にはラデュレのマカロンまで土産に持たせた。

実に甘い。まさにスイーツ父ちゃんである。甘いのは良くないことだが、娘は私に似ずにかなり堅実派だ。なかなかケチである。その点は元嫁のおかげだろう。

話は変わる。実家の母親が親元を離れて暮らす子供に食材などをあれこれ送ることをAmazonをもじって“ママゾン”と呼ぶらしい。

なかなかセンスのあるネーミングだ。私も一人暮らしを始めて間もない娘にいろんなものを送りつけている。パパゾンである。

お金がかかるという点では「パパ損」と表記するほうが的確だ。もともとネットでしょっちゅう買い物をしているから、つい娘にもいろいろ送ってやろうなどと考えてしまうわけだ。



先日も災害時に利用するラジオやどうでもいい雑貨を送った。もう何年も取り寄せ続けている高濃度ビタミンCも欠かさず送っている。

この高濃度ビタミンCは、ウソかホントか、普通のビタミンCサプリと違って体内に滞留しやすいので効果を発揮するとか。

何年か前に娘のニキビ対策商品として買わされた。たまたまなのか、効き目があったのか、その後、娘のニキビはすっかり改善され、なぜか風邪もまったくひかなくなったらしい。

信じるものは救われる、といった印象もなくはないが、そうなるとヤメる気配はない。買わされ続ける私としてはビミョーである。



で、コロナ禍のいま、私もこれを毎日飲み始めるようになってしまった。免疫力向上に効果があるというフレコミなので手を出してしまった。妙に高い商品だから困ったものである。

飲み始めてまだ2ヶ月程度なのだが、効果は不明だ。強いて言えば風邪っぽい様子になることがまったく無くなったことぐらいだろうか。

でも、もしそれが高濃度ビタミンCの効き目だったとしたら意味はある。今の時期、ちょっと風邪っぽいだけでコロナを疑って右往左往しなければならない。そうならないだけでも有難い。

他にも様々なサプリや常用薬を服用しているから、いったいどれが私の元気の源なのかはまったく不明である。

さて、娘が19才になったということは、あと1年で長期熟成保存していた記念の酒が飲めることを意味する。



娘が生まれた時に焼き締めの甕に入った泡盛を購入した。メーカーに相談して甕の背面に娘の名前を彫り込んでもらい、20年経ったら感動しながら飲もうと企んだわけだ。

購入時点で5年モノだったから、来年娘がハタチになる時には25年モノである。素焼きの甕で保存しているとガラス容器での保存と違って熟成が進む。間違いなくウマい泡盛に育っているはずだ。

甕を発注した19年前、果たして自分は20年後に娘と仲良く酒を酌み交わせる仲でいるのだろうか等々、いろんなことが頭をよぎった。

あと1年、大過なく過ごせれば、記念の泡盛を嬉し泣きしながら飲めるだろう。その日が待ち遠しい。

離婚だなんだと少しガタガタはしたが、娘との関係が断絶していたら甕を見るたびに悲嘆に暮れていたはずだ。そういう状況にならなかったことはとても幸せなことだと思う。




2020年7月10日金曜日

チャーハンは小悪魔


コメが好きな私は当然チャーハンも好きだ。10年以上続けているこのブログでは、ピラフやカレーライスは何度も語ってきたが、チャーハンを主役に話を進めたことはない。



チャーハンってそういう存在である。誰もが好きなのに「そういえば好きだよ」程度のポジションに甘んじている。

時々、思い出すのもイヤになるほどマズいチャーハンに遭遇する。でもなぜか許されている。美味しかった時でも熱く語られることは少ないし、なんとなく中途半端な立ち位置である。小悪魔みたいだ。

食べたこと自体を無かったことにして記憶から消したいぐらいダメなチャーハンが世の中に結構出回っているのは確かだ。デリバリーだとその確率は高い。

でもダメダメチャーハンに関してはナゼか声を荒げて怒る人はいない。ラーメンがマズいと大騒ぎする人はいるがチャーハンにはそれがない。不思議だ。

きっと「チャーハンを注文しちゃった自分が悪い」という自責の念が少なからずあるのだろう。

そのぐらい、チャーハンは主役ではない。チャーハン専門店が滅多に無いことでも分かるように、あくまでラーメン屋や中華料理屋で“付け足し”みたいに食べられている。

ウダウダと前振りが長くなってしまったが、最近やたらとチャーハンが食べたくなる。理由は無い。



池袋のホテルメトロポリタンにある「桂林」で食べたチャーハンだ。この店は池袋界隈では実に貴重な美味しい店。チャーハンも抜群だ。

パラッパラのお手本みたいなチャーハンである。具材に頼らず上品ながらもしっかり旨味がある。

こういう高級路線のチャーハンがウマいのは当然だが、私が最近やたらと食べたくなるのは、いわゆる「町中華」のチャーハンだ。

昭和の頃の食堂みたいな店で出てきたチャーハンは、妙に胡椒が効いて妙に味が濃くちょっと油っぽいジャンクな一品だった。

パラパラという概念などそこにはまるで無い。だからといってベチャベチャというわけでも無く、しっとり系というカテゴリーである。



必ず付いてくる謎スープも町中華チャーハンのキモである。レンゲによそったチャーハンをスープに浸すも良し、レンゲによそったスープをチャーハンにかけてビシャっと食べるも良しである。

ここ1ヶ月ぐらい、職場や自宅にほど近い町中華に入ってチャーハンを頼むのだが、なかなか気に入った一品に出会わない。ベチャベチャだったり、妙に味が薄かったり、会心の作品?に出会えていない。



これは銀座一丁目にある割と有名な老舗の町中華で食べたポークライス。この時もチャーハンを食べる気満々だったのだが、隣でチャーハンを食べていた人がいたので、マネっこ親父だと思われるのがシャクでこちらにした。

残念ながらびちゃびちゃだった。リゾットだと思いながら美味しく食べた。きっと隣のチャーハンもびちゃびちゃ系だったはずだ。

別な日、洋食の老舗「たいめいけん」にチャーハンがあるという情報を入手し、わざわざ食べに行った。

たいめいけんと言えばオムライスやチキンライスといったニッポンの洋食の総本山?みたいな店だ。そういう店のメニューにわざわざチャーハンがあるのが実に興味深い。



普通のチャーハンだった。普通というのは良い意味である。なかなか普通のチャーハンに出会わなかった私としてはそれなりに満足できた。

まったく奇をてらっていない。というか、本当に普通だ。味も想像の範囲内ど真ん中という感じ。感動はしないものの、じわじわと美味しくなってきて飽きずに食べ終えた。

町中華じゃないから謎スープは付いていなかったのがちょっと残念。そういう点で、やはりこのチャーハンも私がいま求めているチャーハンではなかった。

最近仕入れた情報によると、有楽町や新橋にはチャーハンがウマい町中華の店が多いらしい。まだまだ探検を続けないといけないようだ。

2020年7月8日水曜日

大らかに暮らしたい


盛り上がりのないまま都知事選が終わった。誰がどう考えても分かる結果になったが、最近、選挙の際に飛び交うヘンテコなフレーズ?に違和感がある。



「投票に行かないやつには政治を批判する資格はない」。もっともらしく聞こえるが、トンチンカンだろう。

もちろん、貴重な権利を行使することは大事だが、あえて言わせてもらえば棄権も意思だ。投票に行かなかったから政治や政策を語る資格がないなんて幼稚な論法だろう。

マスク警察、自粛警察といった言葉が今年のハヤリ言葉みたいになっているが、選挙の際にそんなことを声高に言う人々は、まさに“選挙警察”である。

批判を承知で言わせてもらえば、政策を語ったり批判する資格がないのは、税金をロクに納めていない人であって、投票に行ったかどうかで判断される話ではないと思う。

なんだか、最近はナントカ警察みたいな風潮が強まっている。SNSの普及によって誰もがいろんな場面で発信できることは良いことだが、なんでもかんでも同調圧力に繋がっていくような空気は気持ち悪い。

世の中には適度な大らかさは必要だ。ギスギスした押しつけこそ正義みたいな空気では世の中が殺伐とする。

人は人。当たり前だが、そういう視点が大事だ。ヨソの人のことを気にする人が多過ぎるのだろう。

SNS文化の普及で、リア充アピール合戦が盛んになったことの副作用なんだろうか。結局、嫉妬やネタミみたいなネガティブな空気がどんよりと世の中を覆っている。

若者ならいざ知らず、いい年した大人であれば、自分は自分、人は人という達観は必要だ。そんな当たり前のことを強く言いたくなるぐらい今の世間はヘンテコな監視社会みたいである。

誰が浮気したとか誰がマスクをしていなかっただの、そんなことを寄ってたかって叩きまくることは正義でも何でもない。ただのウップンばらしだ。

まあ、今さら私がそんな正論を書いたところで仕方が無いが、「大らかさ」を忘れちゃうと世の中がトゲトゲしくなるのは間違いない。

一応、私自身も大らかさを心がけるように暮らしている。それが時に緊張感の欠如につながって失敗もするが、トンガってキーキーした気分で暮らしているより遙かにマシだと思う。

先日、出かける際に雨なのに傘を忘れたと思い、目の前のコンビニで傘を買った。受け取って広げようとしたら、持参していた傘を腕にぶら下げていたことに気付いた。



結果、二刀流の完成である。バカ丸出しである。いや、バカというより大らかさの証である。いや、やはり単なるバカかもしれない。

一ヶ月ぐらい前に肺のCT検査を受けた。胃カメラ、大腸カメラとともに年に一度はチェックしている。喫煙者のタシナミである。



と言いながら、肝心の結果を聞いていないことにさっき気付いた。検査を受けただけで満足してしまったらしい。

バカである。いや、これも大らかさの証だと思い込むことにしよう。いや、やっぱりただのバカである。

ガンが見つかっていたらシャレにならない。早めにちゃんと結果を聞きに行こうと思う。

自分で書いていて気付いたが、こういうドジは大らかとは違う次元のような気がする・・・。