2012年12月28日金曜日

偏屈だから笑っていよう

今年も間もなく終わりだ。今日で仕事納めの人も多いみたいだが、どなたさまも1年間お疲れまさまでした。

たかだか1年前には思いもよらなかったことが身の回りに起きるのが世の常である。

私自身、今年は大きく変化した年だった気がする。

細かいことは数限りなくあったが、個々のあれこれはさておき、最近、自分自身を振り返る時、着々と「偏屈ジジイ」に向かっていることを実感して困っている。

年をとると怒りっぽくなるといわれる。死んだ祖父もそうだった。老境に入ってからはいつもブリブリ怒っていた。

多分、いろんなことがもどかしくてイライラするのだろうが、私の年齢ではチト早い気がする。もっと大らかで悠然と構えていようと反省している。

作家・伊集院静のエッセイがかなりの売行きらしい。週刊誌の連載が元になっているようだが、大人がシガラミ抜きに放つ正論の小気味よさがウケている。

私も読んでみたが、いちいちうなずく論調が多い。ただ、一方で感じたのは、昔、この人が書いていたエッセイと比べると怒っている場面が増えたということ。

勝手な推測だが、これも年齢の影響だろうか。腹が立つことが社会中に蔓延しているからこその怒りなのか、年齢による怒りっぽさなのか、大いに気になるところだ。

さて、私自身の偏屈ぶりというか、イライラの原因は何が原因だろう。やはり社会状況のせいなのか、単なる加齢のせいなのか、つくづく前者であって欲しいと願っている。

先日、クリスマス嫌いを反省して、何年か前に公開されたディズニー映画「クリスマスキャロル」をレンタルして見てみた。街中で嫌われている偏屈ジジイが聖夜に改心するストーリーなのだが、あまりに教条的だったのでイライラして途中でやめてしまった。

先日もクリーニング屋さんのオバハンと少しばかり揉めた。1万円札しか手持ちが無いことをきちんと低姿勢で詫びながら代金を支払おうとしたのだが、オバハンがことさら迷惑そうな態度に出やがった。大いにキレてしまった。

詳細は恥ずかしいから書かないが、そんなことばかりだ。タクシーを拾っても、道を知らないことを悪びれない運転手だったらサッサと降りるクセも付いてしまったし、席が空いているのに平然と待たせるような店では毒づいてしまう。

我ながらカッチョ悪いと思う。でも、すぐにイラついてしまう。きっと重度のワガママなんだろう。毎日5回ぐらいは心の中で「短気は損気」とつぶやいてみるのだが、低レベルの対応に直面すると、スイッチが入ってしまう。

でも、状況に応じた神経の使い方が出来ない人が世の中に増殖しているように思えて仕方がない。

何でそこでそういう言い方をするのかなあ、何でこういう時にはこういう対処が出来ないのかなあ等々、自分を棚に上げて悶々としてしまう。

何様だ!?オレ・・・って感じである。

こういうことって書いてみることで、意外に自己反省につながったりするからダラダラと書き殴ってしまった。

猛省しようと思う。

偏屈になると何が困るかというと、自分自身が楽しくない。これは最悪である。自業自得だから誰のせいでもないのだが、大げさにいえば、振り上げた拳が迷走しちゃう感じだ。

笑うことで免疫力が上がることは医学的にも常識だし、いまや「笑い療法士」なる資格まで注目されているそうだ。

来年は「笑うこと」を人生の重要課題に位置付けようと思う。「笑門来福」をモットーに過ごしてみようと思う。

年末年始は、きみまろのCDを聞きまくったり、寄席に出かけたり、ユーチューブでオバカ動画でも探して、今更ながら「ミスター・ビーン」でもじっくり鑑賞しようかと考えている。

手軽に爆笑できる映画とか動画とかご存じの方は是非教えていただきたい。

皆様良いお年を!

年明けは1月7日から更新を再開する予定です。

2012年12月26日水曜日

熱海と伊東

ふらっと熱海と伊東に出かけてきた。旅と呼ぶには大袈裟な1泊の日程で、ちょろっと命の洗濯をしてきた。

転地療法という言葉でも分かるように、人間誰しも普段とは違う場所に身を置くと途端に気分が変わる。

煮詰まったり気分が滅入ったら、束の間でも近場でもいいから枕を変えて眠ってみるとリフレッシュする。そんなことを実感した。

新幹線でサクッと熱海に行って、老舗レストランでウマいものを食べて、ぶらぶら海を見ながら散歩したら、一足延ばして伊東で温泉三昧。これが今回のスケジュール。

熱海も伊東も勝手知ったる場所である。知らない場所を旅するのもワクワクするが、その逆も良い。アセアセせずにノンビリできる。


熱海のレストランは洋食の名店「スコット」。有名な店だが、今までは熱海だ伊東だというとすぐに寿司屋とか活魚料理屋を目指していたので初めての訪問。

シチューだのクリームコロッケだのグラタンだのオムライスだの、一連のニッポンの洋食が大好きな私にすれば天国みたいな店だった。

古めかしい店の造り、分かりやすいメニュー構成、ちょっと強気な値段設定も悪くない。そこそこの値段が付いていないと、この手の料理は大してウマくないことが多い。


この日、食べたのはエビフライ、グラタン、タンシチューなど。全部ウマかった。シチューは少しクドかったが、赤ワインと一緒に味わえばまた別な印象があっただろう。

妙にウマかったのがエビフライ。エビと衣の一体感が独特で、久しぶりに正しい?エビフライに出会ったような気がした。タルタルソースをベタベタつけて白ワインをグビグビ飲んで簡単に昇天。

その後、伊東に向かった。聞くところによると伊東は源泉数が日本トップレベルの多さだという。子供の頃、祖父が別荘を持っていた関係で身近な存在だった伊東だが、そんな話を聞くと途端に有難い場所に思えてくる。

無色透明な温泉だから今までとくに感慨もなく浸かっていたのだが、有難い話を聞いたせいで、今回泊まった宿の湯が保湿性、保温性の高い有難いものに感じた。


「淘心庵米屋」が今回の宿。全部で17室の規模。のどかにホゲホゲするには適度な規模だ。

すべての部屋にかけ流しの半露天風呂が付いているせいで、お客さんの多くは部屋に籠もるタイプの宿みたいだ。そのせいで大浴場も独り占めできた。前の日に本屋でまとめ買いした「黄昏流星群」をサウナにこっそり持ち込み、フムフム言いながら読破したりして気持ちよい時間を過ごした。

大人向けのマンガは温泉宿でただノンビリしたいときには最高だと思う。そんな真理?にこの年になって気づいた。

そういえば、もう20年ぐらい前に我が社が発行する新聞で劇画を連載したことがある。脚本は私が作っていた。漫画家さんと頻繁に打ち合わせをしながら、ちょっとしたシナリオライター気分だった。

税務調査官が主人公の変な劇画だったのだが、無理やりお色気シーンも盛り込んで好き放題作っていた。

あのマンガが大ヒットしていたら、今頃は印税がっぽがっぽでモナコあたりで暮らしていたのだろう。残念だ。


さて、妄想はさておき、伊東の温泉の話だ。

泊まった部屋はこの宿で一番眺望が良いという部屋。竹林の向こうに小さめの滝が見える。夜にはライトアップの効果で、紅葉がハラハラと滝や竹林に舞い散る風情を眺めながら湯浴みが出来た。

風流な景色を眺めていたかのような書きぶりだが、実際にはこの風呂でも部屋の中でも「黄昏流星群」三昧だった。

部屋はさほど広くないが、いわゆる和モダンの作りで落ち着けた。ローベッドが配置されているから布団の上げ下げで人が来ることもない。

食事は部屋とは別のフロアの個室に用意される。絶品というほどでもないが、季節感が上手に盛り込まれた品々に大満足だった。

夜の遅い時間には小ぶりの特製ラーメンが振る舞われ、朝食も品数豊富で、納豆嫌いの私には塩辛を選ばせてくれるなど全体的に丁寧なサービスが受けられた。

肝心の料金は伊豆箱根あたりの老舗高級旅館に比べれば3割ほど低い値段設定。部屋を選ばなければかなりリーズナブルに泊まれるみたいだ。

せっかくの1泊旅行だからあまりに大衆的なところはゴメンだが、凛とし過ぎちゃって逆にくつろげないような超高級宿も困る。

そういう意味では実に頃合いの良い宿だと感じた。

頭をカラッポにしたいような時には、気軽な1泊旅に限る。最近はそんな気分になりやすいから、こんなふらり旅をちょくちょく続けてみようと思う。

2012年12月21日金曜日

ヘビ・バンザイ

あと10日もすれば新しい年になってしまう。

なんてこった!って感じである。

年齢が上がるに従って時間の経過を早く感じるのは脳の構造上仕方のないことらしい。

子どもの頃の夏休みはあんなに長かったのに、今では1年が3ヶ月ぐらいの感覚で過ぎていく。あっという間に死んじゃうんだろうなあ。。。

それにしても早い。つい先日、紅白とかガキ使を見ていたつもりが、既に355日も前のことだったとはビックリだ。

ところで、年末の妙な気ぜわしさが鬱陶しくて仕方がない。今年こそは考えを改めようと決意している。

正月を迎えることに一喜一憂しないで、単なる月替わりと思い込むことにする。12月が終わって13月になるというか、ただカレンダーが一枚めくれただけだと思うようにしたい。

そうでもしないとせわしなくてしょうがない。

「今年のことは今年のうちに」とか、「1年の総決算を」とか、そういう考えが慌ただしさを招く。

考えてみれば、私の誕生日は10月だから、1年単位でコトを考えるのなら、そこが境目だ。我が社の決算は8月だから仕事上も12月に何かの節目があるわけではない。

住まいもマメに掃除しているから大掃除などは不要だし、たまに気にする占いだって、古式ゆかしいものだと節分が年の変わり目だったりする。そう考えると年末年始にバタバタする必要はないはずだ。

こんな戯れ言を綴れば綴るほど、この考えが極めて正しいと深く納得する。年末年始なんか知らんぺったんゴリラだという思いを改めて強くするのだが、やはり40ウン年のDNAは厄介だ。どうしても「年末年始」が気になる。

年賀状を書かねば、とか、正月用に新しい下着を買おうかとか、ついつい世俗の垢?に振り回されそうな自分がいる。

困ったものだ。

週刊誌のエッセイか何かで「大晦日の除夜の鐘は大きなお世話だ」と誰かが書いていた。百八つの鐘の音が人間の煩悩を洗い流すのが除夜の鐘だが、それ自体がお節介だという指摘だ。

激しく同意したい。まったくその通りだ。煩悩が無くなったら何が楽しくて生きているのか分からない。煩悩あっての人間サマである。

煩悩まみれだから世の中に味わいがあるというものだ。

だいたい、たかだか40歳を「不惑」だなどと誰が決めたのだろう。実にバカバカしい。そういう迷信でオトナを去勢しようったってそうはいかない。

40歳で惑わなくなるような人間は傑物か偉人か宇宙人、はたまた単なるアホだろう。面白味もヘチマもあったものではない。

惑ってナンボ、惑ってこその人生に意味がある。来年も再来年もその先も大いに惑い続けようと思う。倒れるまで惑ってやろうと決意している。惑わないようでは早々にボケてしまうだけだ。

惑うの「惑」という字は「ワク」と読む。重なれば「ワクワク」である。死ぬまでワクワクしていたいから「不惑」などという迷信に騙されてはいけない。

大きな声では言えないが、来年私は何度目かの年男だ。確か3回目だったかな。。。

巳年、すなわち蛇だ。ヘビには愛らしいイメージはないが、干支の中ではメデタイ生き物の筆頭格である。

相場用語で「辰巳天井」なる上げ潮バリバリの言葉もあるし、そもそもヘビは弁天様の使いだから財運を司る土俗的信仰の対象でもある。

食料を襲うネズミを退治することから穀物の神になり、転じて福の神に昇華したわけだ。

顔は人間で顔から下はとぐろを巻いたヘビの姿をした御神体を祭る神社が日本中にあるらしい。

それだけではない。脱皮を繰り返すことから「再生」のシンボルとして尊い存在と見る民間信仰は世界中に存在するとか。

キリスト以外の生き物に再生されちゃっては都合が悪いから、キリスト教国ではヘビは悪者にされたらしいが、アジアの農業国ではヘビは大事な存在だ。

財を運んで再生する。実にいいではないか、ヘビ!

冷血動物みたいなマイナスイメージだって「冷静沈着」というポジティブな解釈をすれば悪くない。とぐろを巻いた姿も良く言えば思索にふける哲学的なものにも見える。

ヘビ・バンザイである。

新しい年も「迷えるヘビ」となって楽しく生きていこうと思う。

2012年12月19日水曜日

頂き物

今年も各方面からお歳暮をいただいた。有難い限りです。この場を借りて心から御礼を申しあげます。


仕事関係の他、銀座関係?からもアレコレと気の効いたものをいただいた。皿とか漆器とか立派なものだと嬉しい気持ちになった数秒後に日頃の散財を反省する。と同時に「顔出さないとマズいかな」という気持ちになる。

「銀座のお歳暮は脅迫状だ」。

物騒な言い回しだが、そういうことだ。

私は元来、物凄くいい人であり、気が弱く、単純で小心者で気配りしまくっていないと死んでしまうタチなので、お歳暮なんかをもらっちゃうと、その店に行かねばならないと素直に思う。

そうは言っても面倒くさがりで出不精で、物忘れが激しいタチだから、結局、新しい年になった頃にはお歳暮への感謝の気持ちが頭から消え去ってしまう。

ご容赦いただこう。

さて、頂いておいてアーダコーダ言うのも何だが、正直、有難いものと困ってしまうものとが存在する。

ナマモノ。これはチト困る。会社宛にナマモノが送られてくると置き場所にも困る。一応オフィスにも冷蔵庫はあるが、贈り物はたいてい大袈裟な梱包だから仕舞い込むにも一苦労。

持ち帰るのを忘れて時間が経ってしまうこともある。魚介好きな私でも、そういう意味でエビとかカニ攻撃には頭を抱える。

ナマモノといっても、毎年、仕事関係の知り合いから頂く和菓子は私の楽しみのひとつだ。賞味期限2~3日の商品だが、事前にわざわざ配達希望日を聞いてもらえるので助かっている。


親戚が経営する岐阜の老舗和菓子屋さんの商品なのだが、悶絶するほど美味しい「いちご大福」を中心に毎年12月のトゲトゲした気分を和らげてくれる。

だいたい、12月は肝臓が日々お疲れ気味である。アンコは肝臓機能に良い食べ物だ。夏場より今の時期に有り難さを痛感する。

一般的なお歳暮商品といえば飲料系だ。酒の銘柄にこだわりがないからアルコール類などは素直に「ラッキー」と思える。珍しいジュースなんかも有難いが、油とか醤油は自分のこだわりもあるから、部下にお裾分けしちゃったりする。

お寿司屋さんから貰う上等の海苔とか、そのお店の「ならでは系」も有難い。ちょっとトクした気分になれる。

個人的な意見で恐縮だが、「選べるカタログ系」は好きではない。最近はカタログ自体が妙に分厚い。パラパラ見ていく作業を強いられることが面倒だったりする。ワガママですいません。

3~4種類から選べるのなら楽しいが、分厚い冊子の中から選べと言われると萎える。放っておくと忘れた頃に業者から催促が来る。贈ってくれた人にも放置していたことがバレるのもイヤだから、欲しくもないものを選んじゃったりして、商品が届く頃には「コレなんだっけ?」という事態になる。

バチが当たりそうだから適当にしよう。

さて、最近なぜだか自炊する機会が増えた私にとって、妙に嬉しいのが「そのまま食えるもの」だったりする。

高級レトルト食品とか高級缶詰スープとかその類が妙に私の心を引きつける。自分では何となく買いたくない値段の商品だ。

スーパーに行けば、カレーとかシチューとかパスタソースとかレトルト食品が百花繚乱状態である。「富豪」を自認する私としては100円均一のカレーとかは欲しくても我慢する。ついついもうちょっと高いヤツを買ってしまう。

とはいえ、1個500円以上もするような高価なレトルトカレーなどはさすがに躊躇する。「5倍もウマいはずがない」とセコビッチな自分が贅沢したい私にささやく。

いつも悶々とする。こういう場面での数百円の差は実に悩ましい。

高級スーパーなんかに行くと1000円近いレトルト商品もチラホラあるのだが、たいていは我慢して横目で睨んで終わりにしてしまう。

そのくせ、スーパーの帰りにタクシーに乗って散財するのだからバカである。意味不明だ。

そんなアホな、いや、いじらしい私なので、先日いただいた「資生堂パーラーのビーフストロガノフ」には少し萌えた。我ながらミーハーである。

「ホテルオークラのスープ」にも萌えた。

日常の買い物の時だったら、つい敬遠しそうな妙な高級感がある。自分で買うのではなく、頂き物だから嬉しく感じる典型的なパターンだ。

ブランドの魔力に騙されていようとも、なんとなくワクワクする。

実は、今日のこの内容は、1ヶ月ぐらい前に書きたかったのだが、そんなフシダラなことを書くと催促みたいになっちゃうから今頃になって書いてみた。

なかなか奥ゆかしい。

さて、話は変わる。先日、レトルトパスタソースを使って米を炊くと簡単にピラフが出来るという噂を聞いて試してみた。

結果はいまいち。でも、分量の加減や選ぶレトルトソースの選択次第では、お手軽簡単ピラフが出来そうな手応えは掴んだ。

来たるべき新年は、高級レトルト食品の研究に精を出して革命的なマイメニューを誕生させようと思っている。

2012年12月17日月曜日

いにしえの野球選手

昔のヒーローといえば野球選手だった。

小学生の頃、巨人ファンだった祖母に連れられ、しょっちゅう後楽園球場に足を運んだ私だが、子どもから見た野球選手は神様みたいな存在だった。

ある日、試合後、球場近くを歩いていたら脱兎の如く走ってきた大男とぶつかりそうになった。ファンから逃げてきたジョンソン選手だった。

「ジョン損」と呼ばれて散々な目に遭っていた大リーガー(当時はメジャーリーガーとは言わなかった)の大男だ。

脅えた顔で逃げてきた彼は一瞬、私にすがるような目をした。とはいえ私は子どもだ。オドオドしていただけで、ジョンソンは「ちぇ、話にならないぜ」と言いながら?去っていった。

高田選手の大ファンだった私だが、当時の巨人選手の名前は背番号順にすべて覚えていたほどで、いまも懐かしく思い出す。

衝撃的だったのは「張本入団」である。パリーグの暴れん坊というイメージだった彼は、巨人に来た途端、王選手の露払いかのように紳士的におとなしく過ごしていたが、バッターボックスから滲み出る迫力は、巨人選手しか知らなかった私を畏怖させるには充分だった。

そんな「張さん」に先日、とある店で遭遇した。ちょっと興奮した。仕事柄、著名政治家とか文化人枠?の人と接する機会はあるが、スポーツ系の有名人と会う機会はない。

小沢一郎が隣の席でカレーライスを食べていた時よりも100倍は興奮した。

イマドキの野球少年が大人になった時に、イチローと遭遇するようなものだろう。気分は途端に子どもの頃に戻った。

店の人の計らいで挨拶させてもらって握手もしてもらった。すっかり野球少年モードになった。

いまでは、すっかり「張本イコール“渇のオッサン”」だが、とにかく野球界では凄い人だった。

ちなみに、昔の有名スポーツ選手が老境に達して、イロモノみたいに扱われているのを見ると少し切ない。

ボクシングでは具志堅の圧倒的な強さに国民は皆熱狂したのに、いま彼がテレビに出てくると、皆が笑う準備をしてしまう。ちょっと切ない。

ガッツ石松にいたっては論外である。「幻の右」に熱狂した記憶は遠くなり、きっと若者からはお笑い芸人だと思われているのだろう。

子どもだったからそう思うのかもしれないが、昔のスター選手はもっと神秘的だった。変なバラエティ番組でイジられたり、便利屋みたいに軽薄な番組でへらへらしていなかった。

あの神秘性がなくなっちゃったのは残念な気がする。

野球選手で言えば、巨人ファンの私から見ればパリーグの野村とか東尾、山田久志、村田兆治とか鈴木啓示あたりは、独特な存在感があった。ほかにも阪急の長池、福本とかロッテの有藤とか、クセモノばかりで巨人と当たらなくて有難く感じたほど恐い存在だった。

セリーグでは大洋の平松とかヤクルトの松岡、中日の星野、広島の外木場あたりは物凄く迫力のある存在だった。ヤクルトの大杉とか大洋の松原とか、数え上げればキリがない。シピン、ボイヤーの米国的迫力コンビも絵になっていた。

なんか「張さん」のせいで、昔の野球のことばかり思い出してしまった。

あの頃、野球選手と言えば、決してスタイリッシュではなかった。ちょっと野暮ったい感じで多くの選手がビミョーなパンチパーマで私服姿などは「白いパンタロン」みたいな感じだった。

でも、その変な感じが、野球界という異質な空間を芸能界とは一線を画した確固たるものとして象徴していたように思う。

なんか懐古趣味に走ってしまった。

結論がまるで無い話になってしまってスイマセン。

2012年12月14日金曜日

政治改革のまやかし

師走の選挙で騒々しい日々だが、いまになって、かつて大騒ぎした「政治改革」って何だったんだろうと思う。

日本新党ブーム、細川政権誕生による、いわゆる55年体制の崩壊の中で鳴り物入りで関連法が導入されてから18年。政治の質が向上したのかは甚だ疑問だ。

改革ではなく「変更」に過ぎないと当時から指摘されていたが、選挙制度改革を例にとっても20年近く経ったいま、弊害ばかりが目につく。

重複立候補によって有権者による「落選させる権利」が軽視されたことが第一。主要政党の場合、小選挙区立候補者の全員が重複立候補しているケースも珍しくない。

せっかく落選させたのにゾンビのように甦ってくる制度は民意とは程遠い。小選挙区制では、結果的に政党名が勝負を分けるから、なんとかチルドレンの増殖に象徴されるように政治家個人の資質が二の次になる。

わけの分からない議員センセイが多くなったのも現行の選挙制度が原因だ。

こうした弊害は、既にここ何度かの選挙で指摘され続けてきたが、改善される気配はまったくない。18年前の政治改革が国民の熱い支持を元にしていたから制度の硬直化を招いているとしたら本末転倒だ。

選挙制度とは別の大問題も存在する。卑劣極まりないインチキが罷り通っているのが政党交付金だ。これも18年前の政治改革で誕生した。

企業団体からの政治献金を廃止する代わりに、国民から吸い上げた税金で各政党に資金をばらまくことが決まった。あくまで企業団体献金廃止の見返りという約束での制度創設だったが、実質的には企業団体献金はいまも平然と続いている。

これまで数千億円もの血税が当然のように使われ、公金目当ての新党誕生が風物詩になる始末。ケムに巻かれたというより、単純明快に騙されただけの話。

共産党が大嫌いな私だが、共産党だけは当初から政党交付金の受取りを拒否し続けている。その点だけはスジが通っている。

日曜日にくだる国民の審判がどう転ぶか、民主党の下野だけは子どもでも分かるが、その後の政権の枠組みがどうなるかはまだ流動的だ。

選挙結果の検証も大事だが、選挙制度をはじめとする政治の在り方への議論を忘れてはならない。「選ばれる側」が自分達に都合の良い制度を作っていても仕方がない。「選ぶ側」からの目線で建設的な議論を深めたい。

2012年12月12日水曜日

甘いモノ

スイーツ男子なる言葉が広まっているらしい。甘いもの好きな男の増殖ぶりを表わす言葉だ。

いっぱしのオトナの男が、いけしゃあしゃあと甘いモノにヨダレを垂らすとは情けない、などと言う気はさらさら無い。

私も甘いモノは好きである。かなり好きなほうかもしれない。

酒を飲む男は甘いモノは敬遠する。こんなイメージが昔は普通だったが、いまや飽食かつ雑食の時代だ。そんな決まりはない。酒も甘いモノも両立する。

だいたい、酒で肝臓が弱ったら糖分が欲しくなるのは理に叶っている。疲れた肝臓にはアンコが最高と知り合いの医者も言っていた。

ちなみにアマノジャッキーオヤジとしては、「スイーツ」という呼び方がどうにもピンと来ない。なんか気取った言い回しに聞こえてゾワゾワした気分になる。

甘味、ケーキ、和菓子、洋菓子、アンコ、デザート等々、呼び方はいくらでもある。総称だとしても「甘いモノ」でいいと思う。

スイーツ。。。。なんか落ち着かない響きだ。ただの歌手を「アーチスト」と呼んだり零細企業の社長が「CEO」と名乗ったりするようなプニャプニャした感じ?がする。

会議の席で「コラボ」とか「シナジー」とか言われた時の後味の悪さに似ている。

なんか大袈裟か。

話を戻す。

夜の酒のために昼飯を抜くことが多いのだが、どうにも空腹が我慢できないと職場の隣のコンビニで甘いモノを買ってしまう。

さすがに生活革命?を起すほど勢いのあるコンビニだ。昔、そこらのスーパーで売ってたような安直な味わいの甘いモノとは違って結構なレベルだ。ニコニコ食べてしまう。

甘いモノのなかでも私が好きなのは「ブルブルムチムチプ二プ二系」だ。分かっていただけるだろうか。食感のことだ。

羊羹だったら「ういろう」、最中より饅頭、饅頭より大福だ。こしあんと白玉の組み合わせなんかには悶絶する。

ババロアなる物体を初めて食べた子どもの頃の衝撃も強烈だった。無敵だと思っていたプリンをもモノともしないアノむっちりぶるぶるした感じにノックアウトされた。名前からして凄い。「ババロア」だ。凄い響きだと思う。

というわけでサクサクしたものや固いものには惹かれない。ラスクだとかマカロンなどはちっともウマいと思わない。もっとデロリン、ドヒャーっと甘さが襲ってきてくれたほうがいい。

パリに旅行した際に毎日のように食べていたクリームブリュレだって、上側の焼かれてパリッとしたカラメル部分がウリらしいのだが、私としてはコッテリした中味のほうばかり夢中になって食べていた。

生クリームも偉大だが、カスタードクリームも実に崇高な存在だ。あれを発明した人は、上海ガニの紹興酒漬けを発明した人ぐらい偉大だと思う。全然脈略がなくてスイマセン。


この画像は丸の内・パレスホテルで食べたマロンシャンティーなる伝統的なケーキだ。生クリームが甘すぎずコクのある牛乳風味が生きていて「正しいニッポンの洋菓子」の味がした。中味は栗がゴロゴロしていた。

ピラフとかカレーライスとかもそうだが、日本の歴史のある洋食レストランで出されるデザートはたいていウマい。本国そのままの味ですとか言って出される洒落た海外のデザートよりDNAが喜ぶ感じがする。

洋菓子といっても、私の場合、ナポリタンとかカニクリームコロッケみたいな「日本の洋食」と同様に「日本の洋菓子」が好きなんだろう。昭和40~50年代に街の洋菓子屋に置いてあった「フツーのケーキ」に惹かれる。

四の五の言ってみたが、なんだかんだ言って、洋菓子より和菓子のほうが好きな私だ。つい先日も散歩中に「すあま」を見つけて躊躇無く購入してワシワシ食べながら歩いた。

家にもアンコ系の甘味は常時待機している。緑茶にアンコ。この冬もこれで決まりだ。

2012年12月10日月曜日

ピラファー

このブログでは、私自身を表現する変な一人称を何度も使ってきた。炭水化物が好物だから「タンスイカブラー」、あまのじゃくな性格を意味する「アマノジャッキー」、日本的なものが好きだからドメスティックを略した「ドメ男」、読んで字の如く「胸焼け太郎」などなど。

野菜ばかり食べる異常な人を「ベジタリアン」と呼ぶのと同じだ。語感もいいし、我ながら気に入っている。そして、今日新たな名称が誕生する。

「ピラファー」である。

なんとなく聞こえがいい。音の響きが軽快だ。少し発音がしにくい感じもインテリっぽくていい。


「ピラフ好き」とか「ピラフマニア」では迫力がない。ピラフに目がない人のことは「ピラファー」と呼ぶことにする。

ピラフとは本来、炒めご飯ではない。炊き込んだ料理である。そうは言っても、洋風であれば、単に炒めたライスをピラフと総称してしまう風潮がはびこっている。

まあ、「タンスイカブラー」としてはウマければどっちだって良いのだが、「ピラファー」としての自分の感覚からすると妥協は出来ない。

時々「こんなもん、ピラフじゃねえ~!」と皿を引っ繰り返したくなることもある。ウソです。

で、久方ぶりに正しいピラフを食べた喜びを書きたくなった。

皇居の横にデンと構えるパレスホテル。今年の春に全面改装オープンしたが、今まで足を踏み入れていなかった。理由は簡単。オープン当初、カフェレストランのメニューに名物のピラフが無いと聞いていたからだ。

九段下にある弟分のホテルグランドパレスには、頻繁にピラフを求めて出かけていく私だ。兄貴分のホテルのリニューアルを心待ちにしていたのにピラフがないなら行っても仕方がない。

それから半年。「ピラフがメニューに載ってる」という有難い情報を入手したので、さっそく出かけた。

ホテルレストランのピラフといえば「ソース」が付きもの。そのままでもウマいピラフに特製ソースを加えることでウホウホウッシシな味に変化する。

パレスホテルの公式オームページに掲載されていた味の伝統を紹介するコーナーには、ピラフソースのことも書かれている。

引用してみる。

~~伝統のドゥミグラスソースに、エシャロットと白ワインを加えバターで仕上げる。甘く柔らかな香りが際立つ~~

うーん、そういうことだ。読んでいるだけでヨダレが出てくる。照明が暗かったので美味しそうに写っていなくて忸怩たる思いだ。


実際に食べてみた。ウホウホウッシシだった。炊き込まれた感じが如実に分かるピラフ特有の米の食感が愛おしい。シャトーソースと呼ばれるソースも最高だ。

稲作を始めた古代人の叡智に心から感謝したくなった。

パレスホテルのロビーフロアにある「グランドキッチン」は、天井が高く、穏やかな照明、席の間隔にもゆとりがある。喫茶コーナーと区分けされていることもあって「ホテルロビー階のカフェ」の割にはハレの場所みたいな雰囲気も味わえる。悪くない。




タパスだピンチョスだと今風を意識した小皿料理をつまみにアルコールを楽しみ、その後、エスカルゴを頬ばったり、名物ローストビーフとかをワシワシ食べて、ピラフで締めるという実に分かりやすいディナーが楽しめる。

外資系のカッチョいいホテルのカフェレストランに行くより、「ドメ男」である私としては、帝国とかオークラ、ニューオータニ、キャピトルホテルとか老舗日系ホテルのカフェレストランで過ごすほうが気分がいい。パレスホテルもピラフ目当てに何度も通うことになりそうだ。

2012年12月7日金曜日

銀座のクラブ「M」

某銀座の某六丁目にある老舗のクラブ「M」。銀座でも一、二を争う知名度を誇る店だ。先日、出版されたばかりの開業40周年記念本をいただいた。

あの街で一流と言われ続けて40年。凄いことだと思う。銀座の端っこで飲むようになって20年弱の私なんぞは、あの街ではヒヨッコだ。でも、だからこそ40年の重みを感じる。

その本は、数十人もの各界著名人からの寄稿が中心。オーナーママの手になる文章は全体の一部に過ぎないあたりが、あの店の上品で控えめな感じを象徴している。

財界のお偉方、文壇の重鎮、文化芸術分野の著名人などなど寄稿している面々は誰もがその名を知っている人ばかり。改めて「M」が銀座でも一流と称されている実態が垣間見えた。

実は私の「銀座デビュー」は幸か不幸かこの店だった。人に連れられてクラブ活動に加わることはあったが、自発的に銀座の店に行ったのは「M」が最初。それまで六本木ではクラブ活動に励んだことはあったが、銀座は場違いだと思って敬遠していた。

初めて訪ねた「M」には銀座っぽさがプンプンしていて、まだ30歳前後だった私は大いにたじろいだ。そのかなわない感じ、背伸びしたって届きそうもない感じに妙にワクワクした記憶がある。

それから20年近くが経つのだが、とにかく不思議なのは、店の空気が変わっていないことだろう。「M」独特の雰囲気、空気感はずっと安定している。栄枯盛衰激しい銀座の街では奇跡的なことだと思う。

それこそ、10年、15年前に私と馴染みだったホステスさんがタイムスリップして働いていてもちっとも違和感を感じないはずだ。並大抵の経営努力では、あのようにカラーを持続し続けることは大変だと思う。

これ見よがしにガハハハ大騒ぎして金満ぶりをひけらかしているオヤジもいないし、エロ大魔王になって下品な空気を巻き散らかすオヤジもいない。

かといって、客が堅苦しく飲んでいるわけではなく、どこかポワンとリラックスした空気が流れている。

銀座のクラブと称する店は無数に存在するし、私自身、結構な数の店を見てきたが、「M」の快適で上質な品の良さは他の店では味わえない。

いろいろなクラブに行っても「ふるさと」である「M」を比較対象にしちゃうから、ついつい辛口評価をしたくなってしまう。これって結構不幸なことだ。

でも、多くの店でガハハハ金満あからさま親父とかドスケベ下品親父に少なからず遭遇しちゃうと「M」の穏やかで凛とした空気が恋しくなる。

というか、「M」以外では、私自体がドスケベ下品太郎に成り下がっているのかもしれない。そういう意味では、「M」は「正しい銀座のスマートな客」でいられるためのリハビリ場所としての機能もあるのだろう。

もともとふらっと立ち寄ったことがきっかけだから、高名なママさんとは会釈を交わすぐらいでじっくり話をしたこともないが、ガンガン自分が目立つことで店のカラーを演出している多くの銀座ママさん達とは違う不思議な空気を醸しだしている。

あのさりげない感じに、お客さん達は安心感を覚えるのだろうか。日本人が好む美徳というか、精神世界に通じる何かがあるのだと思う。

私もいっぱしの大人である。自分の飲み方が人様にはどう映っているかは分らないが、少なくとも無粋に見られないように最低限のカッコ付けは心掛けている。それも「M」で無意識のうちに学んだものだと思う。

銀座は男の教科書だという言葉がある。イロモノみたいな店が増殖してしまった今、銀座らしさを色濃く残すあの店が「初体験相手」だった私は、そういう意味では幸運だったのだろう。

2012年12月5日水曜日

クリスマス

「1年のうちでもっとも自殺者が多い日」が今年も近づいている。

言うまでもない。クリスマスだ。どこぞの国では、まことしやかに自殺最適日?として認識されているそうだ。

キリスト教を信奉する国では、クリスマスは家族揃って団らんするのが決まり。日本で言えば正月の雑煮みたいなものだ。この日に家族がいない人は寂しさが最高潮に達して死んじゃうらしい。

純日本人である私としては、たとえ、正月元旦に寂しかろうといちいち死なない。ましてや、キリスト様に縁がないから彼の誕生日に一喜一憂することもない。

クリスマスが苦手になって久しい。子どもの頃は子どもだったから?やれツリーだ、やれトナカイはまだかと喜んでいたが、20代の後半ぐらいからアマノジャク精神が爆発して俄然苦手になってしまった。

そうはいっても多くの人の場合、子どもが出来ると、またクリスマスを楽しむようになるらしい。

私の場合、ツリーの飾り付けすら一切手助けしたことがない。仕方なく子どもにはプレゼントは渡すが、殊更イベントみたいに騒ぐこともない。

子どもには早くから「サンタなんかいない」とか、ユーミンの名曲の替え歌を歌いながら「本当はサンコンさんなんだよ」と吹聴してきた(http://www.youtube.com/watch?v=Cew5DYuSNfk 1分20秒目ぐらいにこの曲が出ます)。

でも、いたいけな子どもは今だにサンタ実在説を信じているみたいで気の毒ではある。

そんな私だが、なんだかんだとキリスト様には結構親近感を覚えている。幼稚園の頃からキリスト教系の学校に通ったせいでマリア様とかキリスト様にはいろいろお世話になった。

学校正門にあったマリア像なんか何十回も磨かされたものだ。夏の暑い日にはチャペルに忍び込んでキリスト像を見上げながらヒンヤリした長椅子に横たわったものだ。

だから凄く身近に感じている。

小学校の時には聖歌隊に選ばれて天使のようなボーイソプラノで「もろびとこぞりて」とか「あめのみつかいの」を熱唱していた。

「グロ~~~~オ~~リア、インエクシェルシス、デ~オ~」である。

それにしても、それぞれの聖歌が「天の御使い」であり「諸人挙りて」であると知ったのは随分後のことだ。平仮名で歌っていたからヨソの国の言葉かと思っていたぐらいだった。

やはり小学校の頃、学芸会みたいな演し物では、聖劇みたいな演目が多かったのだが、そこでも神様の役を演じたりしていた。

といっても、大した役ではなく、同窓生で今をときめく名優の香川照之なんかが主役級の活躍を見せる中、私はほとんどセリフもなく、ただニワトリの頭に火を付けるというトンデモない陳腐な役だったことを覚えている。

まあ、私が頭に火を付けたせいで、世の中のニワトリのトサカは赤色になったという設定だったから、一応重要な役だったと思っている。なんじゃそれ・・・。

キリスト教系の中学校が使っていた英語の教科書をベースにした塾にも通った。通っていたのは我が母校以外は女子校の生徒ばかりだったので、サボらず通った。ここでもクリスマスには簡単なプレゼント交換みたいなイベントがあったのでマセガキの異性交遊に大いに役立った。

キリスト様やマリア様に随分とお世話になったのだから、クリスマスも真摯な気持ちで祝わないといけないのだが、どうにもムズムズするような落着かない気分を感じて仕方がない。

日頃、困った時に祈りを向ける相手は、無意識ながら自分の守護霊だったりご先祖様だったりする。キリスト様やマリア様ではない。

信心のカケラもないクセにクリスマスだけワセワセ騒ぐのは何となくズルいような気がする。普段から教会のミサに通っているような信心深い人のためのイベントであるべきだと思う。

なんだかんだ言って、何がめでたいのか分らないままプレゼントを買わされたり、変に散財したり、こそばゆいような店でこそばゆい特別メニューの料理を出され、こそばゆいような飲み物を嗜むアノ独特な空気が苦手なだけなんだろう。

そんなくだらない感覚に陥ったままでいること自体、まだまだ自分が若い証拠だと勝手な解釈をしておこう。

2012年12月3日月曜日

堕落

このところ、まるでマニアのようにホームセンターみたいな店に入り浸っている。東急ハンズとかロフトとか島忠とか、遠くのニトリにまで出かける。妙に楽しい。

元来、不器用だからDIYみたいなコーナーは素通りして便利グッズなんかを一生懸命見て回っている。不器用だから便利グッズが欲しくなるわけだ。

以前、自宅の整理用に頑丈なパイプラックがいくつも必要になった。でも組立がえらく面倒だったので、近所のホームセンターの見本用の展示物をゴリ押しして何個も購入。軽トラックまで借りて運んだ。

そんなマメさがあるなら組立ぐらいすればいいと自分でも思う。

それにしても「ホンマかいな」と思うような便利グッズがアレコレ存在するものだ。

掃除用品なんて、すべての能書きを信じたらどんなに古い家だってピカピカになるみたいだ。

確かに普通に洗っても落ちない浴室鏡の鱗状の水垢とかも専用クリーナーで処理すればピカピカになるから、それなりに信ぴょう性はありそうだ。

調理関係の便利グッズも面白くてつい衝動買いをしてしまう。真にウマいものを食べようとする求道者だったら許せないようなモノがてんこ盛りだ。

「電子レンジで焼き魚が簡単に作れる皿」。そんなはずないだろう!って毒づきたくなる。でも買ってしまった。まだ使っていないが本当だろうか。

「電子レンジで簡単にパスタが茹で上がる容器」。そんなはずないだろうと毒づきながら買ってしまった。


で、使ってみた。う~ん、実に素晴らしい。話はホントだった。大きな鍋を出してきてせっせと湯を沸かせて必死に茹でたのと遜色のないパスタが簡単に出来てしまった。

説明書より短めに時間設定すればアルデンテも可能だ。いや~実に凄い。乾燥パスタを規定量の水を入れたプラスチック容器に入れてチンするだけ。

くっついて麺がこんがらがると思うのが普通だが、まったくそんなことはなかった。茹で上がったらお湯を捨てて出来合いのパスタソースを絡めたら至極簡単にそこそこのパスタ料理が出来上がる。恐るべしである。

その後、調子に乗って同様のやり方で蕎麦やうどんが茹で上がる容器も買ってしまった。まだ使っていないが、パスタ麺の出来上がりを考えればそこそこ使えるはずだ。


お次の便利グッズは「カンタン米とぎマシーン」である。そんな名称ではなかったが、そう表現するのがピッタリだ。

理屈はカンタン。専用容器に米を入れ、水道の蛇口を容器の穴に押しつけて勢いよく水を出すだけ。

蛇口を押し当てる穴の部分は網状になっていて中身が逆流しない仕組み。要は水流で容器の中の米が勢いよく回転することで洗ったり研いだりする作用になるらしい。

で、使ってみた。妙に楽しい。容器の中で米が勢いよく回転し、米同士がぶつかり合って、濁ったとぎ汁がどんどん出てくる。数十秒単位の水流攻撃を3~4回やっていたら、だんだん水も汚れなくなった。

で、炊いてみた。実に普通にウマい米が炊きあがった。恐るべしである。

炊きたてのご飯を冷凍する専用容器も買った。そこに保存して、最新の電子レンジでチンすれば、炊きたてと遜色のないメシが気軽に再現できたりする。

なんとも凄い世の中になったものだ。

それにしても、そんな変なグッズを求めてホームセンターをさまようマメさがあったら、普通に真面目に調理すればいいんじゃないかと少し複雑な気分になる。

まあ、便利さに走ることは人間を堕落させる。堕落していくのはイヤだ。どうしたもんだろう。

堕落しないためにはマメに行動しないとなるまい。やはり、せっせと最新の便利グッズを探すために一生懸命ホームセンター通いをしようと思う。

よくわからない話になってしまった。