若い頃には見向きもしなかったのに今はシミジミ味わう食べ物は多い。お吸い物なんて昔はその存在意義すら理解不能だったのだが、今では出汁の旨味にウットリする。
誰に教わるでもなく年齢とともに勝手に感動できるようになるから実に不思議だ。秋の気配とともに恋しくなるのが土瓶蒸しだ。若い頃にはちっとも惹かれなかったが、いつの間にかこの季節には欠かせない一品になった。
これは新富町のお寿司屋さん「なか山」で出てきた一品。液体のくせに酒の肴にもなる卓越した料理だと思う。外国人旅行者には土瓶蒸しで陶然とする感覚は理解できないはずだ。
大人の味と一口に言っても幅広いが「外国人旅行者が理解できそうにない味」が一種のキーワードになるような気がする。イカの塩辛、あん肝、奈良漬けあたりの美味しさは日本人ならではの味覚だと思う。
うざくである。築地の宮川本廛で食べた。私は中央区界隈で4,5軒の鰻専門店を利用するが、どの店でもうざくは外せない。これと白焼きを肴に一献傾けながら鰻重を待つ時間が大好きだ。
まさかウナギ自身も自分が酢とキュウリに混ぜ合わされるとは思っていなかっただろう。名店のうざくはキチンと温かいウナギを使うのが嬉しい。これもオトナの食べ物の代表格だと思う。
先日、実家を訪ねたついでに荻窪の老舗蕎麦屋「本むら庵」に出かけた。20代の頃から利用している店だが、若い頃は蕎麦をいくら食べてもちっとも満腹にならないから天重をメインにしていた。今ではツマミをあれこれ食べて蕎麦を二枚も食べれば大満足である。
蕎麦がきもこの店では欠かせない。これもまたオトナの食べ物だ。もっちりした食感で切り揃えた蕎麦とはまるで別物の味わい。これも若僧時代は何の感慨もなく惰性で食べていたが今では目の前に置かれるとウキウキする。
この店のせいろは900円なのに対して鴨せいろは1800円もする。2倍の値付けだけあって鴨せいろのつけ汁がなかなかのもの。細かい鴨肉とネギがどっさり入った温かい汁だ。せいろを浸して味わうとこの上なく幸せな気分になる。
最近は東京でも趣向を凝らしたうどん屋が増殖して若者がうどん屋に行列を作っている光景を見かける。歳のせいか「それは西の食いモンだろう?」などとディスってしまう私だが、やはり東京人としては蕎麦がイチ押しである。
この春に引っ越した日本橋界隈には蕎麦の名店がいくつもある。なのにまだちっとも開拓できていないことが最近の私のストレスでもある。どうでもいい肴をつまみに安酒場で飲むよりも蕎麦飲みに励む方が正しいオトナだと思う。頑張らないといけない。
さて、風流人を目指しているかのような書きぶりになってしまったが、ジャンク飯をかっこむことから卒業出来ないのが私の悪い癖である。それも飲んだ後の2軒目にドカ食いをしがちだ。脳の中に悪魔が住んでいるのだと思う。
某日、寿司屋でしっかり飲み食いした後に時計を見たらまだ夜の8時前、脳の中の悪魔が「8時前に食えばカロリーはゼロだよ」と囁く。バカな私はそれを信じて吉野家に突入。
以前なら「特盛り」を嬉々として食べたのだが、さすがに最近は自制している。白米は通常の量で上だけが多い「頭の大盛り」に留めている。「並」を注文することだけは男のプライドが邪魔をして出来ない。
この時は“肉々しい”気分だったので通常より肉が多い「肉だく牛丼」にしてみた。「頭の大盛り」との違いがよく分からなかったので半熟たまごを追加するついでにタッチパネルで「頭の大盛り」も選択してみた。
肉がたくさんの牛丼、おまけに頭の大盛りということはバカが考えても肉でいっぱいである。それでも合計で800円程度だ。日本経済の凋落ぶりにこの時ばかりは感謝したくなった。
出てきたのがコレだ。肉タワーみたいなのを想像していたが残念ながら肉が別皿でやってきた。でも肉々しい気分の私には幸せな眺めである。別皿肉もドンブリに加えて紅生姜を乗っけて半熟卵を混ぜ混ぜしてかっこむ。
得も言えぬ幸福感に包まれた。寿司屋でツマミをあれこれ頼んで握りも10貫近く食べた直後だったのだが余裕で完食。つくづく健康体でいることの大切さを痛感した。
こんな食事を続けていたら健康体でいられる時間も残り少ないかもしれない。まあ、こんな暴飲暴食をしなくても身体がダメになる時は来るわけだから出来る時にガッツリ食いをするのも悪くない。
とにもかくにも街の至る所に牛丼屋があるニッポンバンザイである。