10年ひと昔とはよく言ったもので、10年前と現在を比べると、何かと日常に変化は起きている。このブログは日記的な意味合いもあるから、自分が10年前の今頃は何をしていたのかがすぐに分かる。
ガラケーからスマホに移行したのがちょうど10年前だった。随分前のような気がする。それが10年という歳月の重さだと感じる。
とはいえ、10年前からちっとも進歩していないことも多い。この歳になると10年ぐらいではビクともしない日常のパターンが染み付いているのだろう。
夜の銀座の偽装について真剣に研究していたり(
http://fugoh-kisya.blogspot.com/2013/11/blog-post_29.html)、スケベな話を一生懸命になって書いていたり(http://fugoh-kisya.blogspot.com/2013/10/blog-post_18.html)、結局今と同じである。今と同じどころか30歳ぐらいの頃とたいして変化がない日常を過ごしていると言ってもいい。
お年寄りのシュールな川柳を楽しく紹介していたのも10年前だ。
「延命は 不要と書いて 医者通い」
10年前はそんな傑作をさも自分には関係ないように紹介していたが、列挙したようなシュールな状況はこの10年のうちに確実に私自身も無関係ではなくなってきている。ヤバいヤバい。
一口に10年間といっても40代の後半と50代の後半の違いはそれ以前の10年刻みの期間とはビミョーに違ってきている。老人というステージにいよいよ近づくことで妙に「時間」というものへの想いが強くなってきた気がする。
日々を無駄にすることへの焦りみたいな感覚が以前より強まってきたことは確かだ。とはいえ、60代、70代とは違ってそのことに切実さがあるかと言えばまだそこまでではない感じである。
漠然と時間を無駄にしてはいけないと思い始める年代なんだと思う。ちゃんと実行できないけど頭ではそんなことを思い始めている。
思えば時間って本当に貴重である。昨日とても素晴らしいことがあっても既に過去の話であり二度と同じ時間は来ない。当たり前だがその繰り返しである。
「昨日死んだ誰かが生きていたかった日」が今日という一日である。そう思えばグダグダ過ごしたらいけないと分かっているのだが、いまだにグダグダしてしまう。
読みたい本が溜まったまま増えていくことが私のストレスの一つなのだが、「読む時間がない」というのは単なる言い訳に過ぎず、その程度の時間の確保を怠っていることは問題だ。
本を読まずに深夜までスマホでヘンテコなリール動画を見て夜更かししているわけだから、間違いなく時間の無駄遣いである。
女子高生が謎に踊る動画や生きたネズミをデカいカエルが一飲みする動画、コモドドラゴンが子ヤギを追い回して食べちゃう動画やら私が見ているのはそんなものばかり。
貴重な時間をそれに費やす日々は実にもったいない。それなら心が洗われる映画でも観たほうがマシだ。でもきっと今日もまたワニがカバと戦う動画に見入ってしまうのだろう。
読書の時間の確保などという真っ当な大人なら簡単に確保している時間を私はロスしている。まずはそれを軌道修正することを目指したいと思う。
ちなみに上の画像に写っている本のいくつかは読んでみたが「魂でもいいから、そばにいて」という一冊はとても感動した。
3・11の後の霊体験をまとめたルポである。オカルト的気分で読み始めたのだが、そんな次元の話とは一線を画していた。大切な人を突然亡くした家族の再生と絆の物語がいくつも網羅され、正直何度も涙ぐみそうになった。
「時間の大切さ」というテーマであーだこーだ書き始めたくなったのもこの本を読んだことがきっかけになったんだと思う。
つくづく何気ない日常の大切さと、その大切さに気づかないまま日々を過ごすことの残念さを思い知らされた深い深い一冊だった。
やっぱりカエルのリール動画より一冊の本のほうが役に立つ。当たり前か…。
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