アマノジャクな性格もあって、こんな季節でもアチチとか言いながら熱燗を喜んで飲んでいることが間々ある。
薄着のせいで中途半端に涼しかったり、クーラーで冷えたりした時は、夏場でも熱燗がウマい。
昼飯を抜いた夜、空腹の時にクッとひっかける燗酒が最高だ。「五臓六腑に染み渡る」という表現を編み出した人を尊敬したくなる。
舌先から喉、そして食道から胃袋に至るまでジンワリと熱さが通過していく。シミる~!って感じだ。
画像は、よく持ち歩いている備前のぐい呑み(金重晃介作)にお燗酒を注いで、ゆらめきに酔いながら上物のウニをつまんでいた時のもの。
最近、ぐい呑みや徳利をコレクションするエネルギーが湧かない。個展に行ったり窯場の旅もしたいのだが、そっちに目が向くと散財しちゃうからジッと我慢だ。
わが家には随分徳利や盃が置いてあるのだが、このところ家呑みをほとんどしないので出番がない。せめてぐい呑みはアレコレ持ち歩いて楽しまないともったいない。
そう考えると徳利はさすがに持ち歩けない。面白くない。どちらかといえば盃より徳利のほうが好きだから、もっと使い倒したいのだがなかなか機会がない。
信楽の小ぶりな徳利は澤清嗣さんの作品。石がはぜたような荒々しい器肌だが、フォルムが実に愛らしい。撫で回したくなる。時々、酒を飲むわけでもないのに、ただ掌でもてあそんでしまう。
1・5合ぐらいしか入らないから、ちょびっと飲む時に使う感じだ。ひしゃげた口からぐい呑みに注ぐ時、ちろりと一滴の酒が漏れたりすると堪らない風情だ。喜々として徳利の肌に酒の雫をすりつけてウッシシな気分になる。
こちらは備前の作家・野村一郎さんの作品。使うというより眺めているとその存在感が楽しめる感じだ。何かの雑誌でやきもの特集が組まれた際の表紙画像を飾った作品で、その雑誌を持っていたこともあり、ついつい購入した。
さきほどの信楽もこの備前も携帯で撮影しているから、器が持つ独特の色気が全然表現できていない。ちゃんとしたカメラとレンズを駆使して撮影すれば、もっと立派な作品に見えると思う。
こちらは唐津の陶芸家・川上清美さんの作品。一見焼き締めに見えて、実際は釉薬を上手にまとわせている。口造りの巧みさに惹かれて購入した。ドッシリとした風格が秋の枯野を思わせる。凛とした佇まいが画像で表現できていなくてスイマセン。
30歳ぐらいの頃だったか、日本のやきものに俄然興味が湧いた。作ることに関心はないのだが、自分の琴線に触れる作品を求めて全国いくつもの有名窯場を旅したりした。
初めて身銭をきって買い求めたのが徳利だった。美濃焼の産地である岐阜県多治見をブラブラしていた時に一目惚れした。
いま見ると実にどうでもいい作品なのだが、釉薬の垂れ具合、自分の掌にしっくり合うサイズ感、少しだけいびつなフォルムなど、現在の私の好みの原点になっているから不思議だ。
無名作家の作品で気取った箱も付いてなかった。値段は5千円。その後、10倍も20倍もするような徳利をいくつもホイホイ買うようになったことを思えば安価だった。でも、あの時は「5千円の徳利」を買うのも勇気が必要だった。
5千円が無かったというわけではなく、ロクに使いもしない器を衝動買いする経験がなかったから、躊躇した記憶がある。
いまも自宅の陳列棚の奥の方にしまってある。使うこともなく手に取ることもなくなったが、5倍、10倍の値段の徳利よりも大事な存在だ。たまにふと視界に入ったりすると、あの頃の純粋な気分を思い出す。
酔っぱらって帰宅した深夜。廊下の壁にはめ込まれた陳列棚に飾ってある徳利を引っ張り出したくなることがある。両手で包み込んだり、掌で転がしたり、はたまた頬ずりまでする。
注ぎ口に目を近づけ闇の向こうに何かがあるんじゃないかと必死に覗いていることもある。誰かに見られたら異常な姿だが、好きで集めたものを手にとって夢想・妄想する瞬間ほど楽しい時間はない。
あれも一種の癒しだ。
やっぱりまた窯場への旅がしたくなった。唐津に行きたいなあ。
2 件のコメント:
なんと表現したらいいのかかかりませんが、宇宙があるものがあるような気がしますね。
そうなんですよ。まさに小宇宙。壺中の天です。
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