ちょっと前になるが、皇居横のパレスホテルで晩飯を食べた。昨年、全面改装して小洒落たホテルに変身してから何度か出かけたが、新装オープンの高揚感も収まって中々いい感じだ。
外資系のカッコいいホテルよりもメイドインジャパンの老舗ホテルはどことなく落ち着く。
この日は、1階のカフェレストランのお堀に面したテラス席でスパークリングワイン片手にクダをまいていた。
白レバのパテとか、トマトとモッツァレラなんかをツマミにグビグビ飲んだ。ちょこちょこ小皿料理を食べた後のシメにはピラフである。
シャトーが何を意味しているのかは知らない。でも、このソースをピラフにビチャビチャかけることで、ウットリメロメロの味わいが完成する。
この日のピラフはどことなくベチャッとしていて、ピラファーとしては大いに不満だったが、シャトーソースは昔と変わらずウッヒヒな味である。
ワシワシ食べた。
話を変える。ピラフだ、寿司だ、ウナギだ何だと、このブログでは、まるで一年中ハレの日みたいにウマいものを食べているかのように書いているが、実は今の私に欠けているのは「美味しい味噌汁」である。
一人暮らしもまもなく一年。縁遠くなったのが味噌汁だ。
もともとミソシラー?だったわけではないので、味噌汁が無くてもさほど気になるほどではない。それでも、時々和食屋さんで上質な味噌汁が出てくると妙にシミジミする。
シジミだったらとくにシミジミする。
すいません、ダジャレです。
フリーズドライとか、いまどきのインスタント味噌汁はかなりマトモな味がする。安い定食屋で出される味噌汁よりウマいと思う。
でも、不思議なもので、お湯を入れて簡単に出来上がるインスタント味噌汁を自分で作る気にはならない。なんとなく抵抗感がある。
カレーだの「金のハンバーグ」は気にならないのに、味噌汁だけはナゼかレトルトがダメだ。おいしいまずいの問題ではない。どんなにウマい立ち食いの店でも、立ったままメシを食う行為がイヤで絶対に行かないのと同様、味噌汁のインスタントバージョンがどうも気に入らない。
やはり男にとっての味噌汁は、誰かに作ってもらってこその味である。勝手ながらそう思う。子供の頃にDNAに刻まれた家庭料理の原点みたいな存在が味噌汁なのかもしれない。
「家庭の味」である限り、一人暮らしだと味噌汁の出番はない。意味もなくかたくなにそんな思い込みがある。
たとえば私に同居人がいたとする。きっと知的で聡明で美しい女性である。私のために朝食を作ってくれる際には、当然のように味噌汁も食卓に並ぶだろう。
しかし!、私がその人と家庭を持つ気がなかったとしたら、私はその味噌汁を口にしない。味噌汁は家庭の味である。家庭ではない以上、そうするのが当然だ。
いや、まったくのウソです。きっと味噌汁ばかりすすって塩分過多で病気になると思う。
今日もまた何が書きたいのかよく分からなくなってきた。
ということで、やはり味噌汁は特別な存在であり、チャラっと袋を破いて熱湯を注ぐだけで済んでしまうのはイヤだ。
だから当分の間、いや、この先ずっとかもしれないが、私が自分の住まいでシミジミ味噌汁を味わうことはないと思う。
そんな私が妄想するのが、「味噌汁のウマい小料理屋」だ。最近、その手の店を探しているのだが、なかなか見つからない。
そんなに理想が高いわけではない。
カウンターだけで8席ぐらい。間接照明で、玄関にはいつも打ち水、ドラマ「相棒」に出てくる水谷豊が通う小料理屋みたいな店。
おかみさんは私に密かに好意を寄せる往年の大原麗子そっくりの優しい人。いつも淡い色の着物姿だ。カウンターには備前の花入れ、いつも地味な和花が生けてある。
なぜか私が行くときには他のお客さんはいない。おかみさんは私好みの料理をササっと作ってくれる。
時々、往年の酒井和歌子に似た常連の美女が一人ふらっとやってくる。この人も私に好意を寄せていて、3人の空気が微妙に固くなったりする。
酒井和歌子似が帰ると、これまた往年の坂口良子に似た常連の女性が、往年の松原智恵子似の女性と連れだってやってくる。
この二人組も私に好意を寄せている。ちょっと世間話しただけなのに鼻の下を伸ばしてニヤつく私。おかみさんは、味噌汁を渡すついでに、さりげなく私にふくれっ面を見せる
そういう店だ。
どこかに無いだろうか。あったら教えて欲しい。
あるわけないか。
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