このブログを書き始めてもう7年目である。時が経つのはつくづくあっという間だと思う。
同じ人間が書いているから、同じような話を何度も書いてきたが、私が大好きな言葉を一度も取り上げていなかった。今更ながら気付いた。
遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん
平安時代の歌集『梁塵秘抄』に収録されているものだ。その昔、某有名陶芸家の著作のタイトルに引用されていたことがきっかけで知った言葉だ。
単純に言えば、「遊ぶために生まれてきたのだろうか」という意味である。
時間も忘れて夢中に遊ぶ子ども達を見ていると、子ども達は遊ぶために生まれてきたように見える。自分も子どもの遊びを見習って夢中で生きたい、といった解釈が一般的だ。
遊びや戯れは生きることそのものだ!といったニュアンスで解釈されることもある。そっちの方が収まりがいい。
現代語的異訳として、「遊ばなかったら何も生まれない」「遊びの中からこそ何かが生まれる」みたいな意味で使う人もいる。どれにしたって「遊び」の大事さに焦点を当てていることには違いない。
「遊び」。簡単なようで難しい言葉かもしれない。幅広い意味がある。サボるとか怠けるといったマイナスイメージで捉えるか、ゆとりとか余裕という意味で捉えるかで随分雰囲気は変わる。
四角四面の石部金吉みたいな人からすれば「遊びは文明から生まれた」という理屈だが、実際には「文明は遊びから生まれた」のが正解である。
古代の人間は仕事らしきものは狩猟をしているときだけで、その他の大半の時間は「遊び」の時間だったわけだ。
そりゃそうだろう。衣食住さえ確保できたらあとは遊ぶしかない。きっと時間を持て余さないように様々な遊びに没頭したのだと思う。
現代人のように仕事に縛られていると、遊びは当然二の次になる。だから遊ばないし、遊べない。ヘタをすると、遊び自体を悪だと錯覚して日々を過ごす。
まるで本能に逆らった感覚だ。残念無念である。
社会生活を円滑に運ぶためには遊びを抑えてコツコツと労働に専念することが望ましい。だから文明が進めば進むほど、遊びの要素は追いやられてしまう。
結果、メリハリをつけて遊びと労働を分ける空気が薄らいでしまった。現在の日本社会のように用もないのに職場に居座ってボーっとしている会社人間が量産されるのも仕方がない話。
「遊び」はそもそも人間の本能的な欲求だから、後ろめたく思わないで真剣に向き合うべきだろう。メリハリさえあれば誰に気兼ねすることもない。堂々と本能に従えばいい。
「遊び心」という言葉でも分かるように、遊びイコール「ゆとり」である。ゆとりの無いものに魅力は無い。ゆとりの無い人に魅力は無い。
さてさて、じゃあ一体「遊び」って何だ?という壁にぶつかる。突き詰めて言えば「働くこと、寝ること、食べること以外のすべてのこと」になるのだろうか。
もちろん、「食べること」だって、生きるための食料摂取と趣味としての美食追求では意味が異なる。後者は立派な遊びだろう。
寝ることや風呂に入るといった生活習慣だって、入浴剤を楽しんだり、アロマエッセンスを枕に吹きかける行為は遊びである。
とくに構えずに「自分が楽しいと思うこと」はすべて遊びにつながる。だから「真剣に遊ぶ」ことは決して難しくない。
男が女の尻を追っかける。女が男に媚びを売る。この一連の流れは、子孫を残す本能に応じた生き物としての営みである。ところがこれも文明社会においては適齢期の未婚者を除けば、ある意味「遊び」かもしれない。
遊びと言ってしまうと語弊があるが、結婚とか子作りの予定が無いのに男女が求め合うのは人間だけの特徴である。動物の潜在的な本能とは一線を画している。
「恋」という名の人間だけに許された高度かつ崇高な行動である。人間以外の動物が持ち得ない貴重な「ゆとり」である。
少年がAKBを追っかけたり、少女がジャニーズに夢中になるのも「人間本来の正しい遊び」である。オバチャンが杉良太郎やきみまろを追っかけたり、ジイサンが坂本冬美に夢中になるのも同じである。
私が壇密にゾッコンなのも同じである。
ネコとか犬とか猿とか鹿とかキリンの世界では、そういう「遊び」「ゆとり」は存在しない。
以前、何かで読んだことがあるのだが、動物の中でも人間は大脳が顕著に発達したことで独自の行動様式を確立したそうだ。
大脳は、欲求、喜怒哀楽、意欲など情念、想念みたいな部分を司どっているから、ここが発達したお陰で、身を焦がすような恋愛が出来たり、失恋でボロボロになったり出来るわけだ。
発情期など無い人間の恒常的な性欲はその際たるものだろう。いわば、生き物としての「ゆとり」である。
単なる生殖活動以外ではなく、欲求のままにセックスしたくなるのは、人間サマだけに許された高度なゆとりという意味の「遊び」だ。
だからしっかり遊ばないといけない。神様がくださった特殊な能力なんだから、フルに活用しないと罰当たりである。
適齢期だろうと未婚だろうが既婚だろうが、年寄りだろうが、高度に発達した大脳サマに敬意を表わす意味でもガンガンその能力を発揮しないといけないと思う。
それこそが「人間らしい生き方」である。
こういうのを「暴論」という。
でも、私の場合、本音で本気で心底そう思っている。我ながら神への畏怖と、神への感謝に満ちた謙虚で誠実な人柄?だと思う。
こういうのも「暴論」と人は呼ぶ。
でも、人間だけに許されたこういうスケベ心、いや、恋をする「ゆとり」という特殊能力が人間特有の社会性やコミュニケーション能力につながっているのも厳然たる事実である。
だから、くどいようだが、その能力を封印して禅僧みたいな顔をして生きていくのは馬鹿げているわけだ。
自分がより一層社会性を向上させ、コミュニケーション能力を向上させるために何が必要か。答えは簡単である。「ゆとり」「遊び」に全力を尽くすことだ。
こういうのを暴論、かつ自分勝手と人は呼ぶ。
結局、後半は下ネタになってしまった。
まあ、それもまた人間らしさである。
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