十人十色。最近つくづくそう思う。個性というか、性格や趣味嗜好、考え方に至るまで人それぞれで大きく違う。
奇人に変人、怪人、そして凡人など人を評する言葉もいろいろだが、当人にとってはそれぞれがごく普通の状態である。
自分の尺度で人を測るから、異質な部分が気にかかる。人間関係なんてそれの繰り返しだろう。
一人で外食することを「ぼっちメシ」と呼ぶらしい。ひとりぼっちのぼっちである。
「ぼっちメシ」が出来るか出来ないかみたいな線引きを熱く語っている人がいたが、私に言わせれば、出来る出来ないの議論自体が意味不明だ。
誰かと一緒だろうが、一人だろうが、その場に応じて普通に楽しい。どちらかといえば「ぼっちメシ」のほうが好きだ。なんてったって気楽である。
「一人行動」が苦手な人に言わせると、ぼっちメシや一人旅をする人は「淋しそうな人」に見えるらしい。マト外れである。
一人での行動に淋しさを感じる人の尺度で決めつけられても困ってしまう。でも、そういう種族?の人達に反論しても「本当は淋しいのに強がってるんでしょう?」とか言われる。
先日、私の母親がおかしな夢を見たそうだ。その夢の中で私は「淋しい淋しい」とポロポロ泣いていたそうである。母親としていたたまれない気分になったんだとか。
子を思う親の気持ちは有難いが、トンチンカンぶりも甚だしい。ありがた迷惑である。
母親はどちらかといえば「人好き」なタイプで80才近い今でも趣味の会のような世界に新たに加わったりしている。
一人行動を淋しく感じるタイプなんだろう。そういう種類の人から見ると、愛しい息子が50才を超えて一人でプラプラしていることが淋しいことに映るわけだ。
こっちに言わせれば、80才近い年齢になって新たな人脈作りに励む行動のほうが理解不能である。気疲れして死んじゃいそうな話だと思う。
私だって「人嫌い」というほど偏屈ではないが、ムダに気疲れするタイプだから一人での時間がしっかり確保出来ないのは物凄いストレスだ。
正直に言って、いつでもどこでも誰かと一緒に行動したがる人の方が変な人だと思う。一人行動を楽しめる人の方が普通だと思っている。
でも、その考え方自体が私の尺度でしかないから、あちら側の人達に向かって「あなたは変ですね、大丈夫ですか?」とは言わない。
にもかかわらず、あっち側の種族の人々はこちら側の人間に対して「淋しそうですね」「強がってるんでしょ?」とか余計な挑発?をしてくる。メンドーである。
ちなみに今の時代は「内向き」がキーワードである。アメリカのトランプ大統領誕生しかり、イギリスのEU離脱しかり、来春のフランス大統領選でも極右勢力が伸びているらしい。
本音を隠して無理にヨソと連携したり、出来もしない連帯を目指すのではなく、内向きな姿勢で素直に自分の幸福を目指す、いわば「自己満足型エゴイズム」?みたいな傾向が強まっている。
ぼっちメシならぬ「ぼっちの時代」である。そういう意味では、私が嬉々として独り者生活を楽しんでいることは時代の先端なのかもしれない!。
屁理屈を四の五の書いたが、私のような「ぼっち」が気楽だという種族の人々は要するに単なるワガママなんだと思う。
一人だったらすべて好き勝手である。誰かと一緒だったらさすがにそうはいかない。イギリスの判断もトランプさんの暴言も結局は「本音」であり、その背景は「ワガママ」である。
威勢の良いことを書きなぐったが、私も煩悩の塊だから突然、誰かと恋に落ちたりして一人でいることがイヤになることもあるかもしれない。
それはそれで、その時に考えればいい話である。少なくとも気ままな独り者生活について「淋しそう」という色メガネで見られるのは迷惑だ。
まあ、そんなことを主張すると「淋しそうだから慰めてあげるわ、ウッフン!」という錯覚?で近づいてくれる女性を逃しちゃうからテキトーにしておこう。
2016年11月11日金曜日
「ぼっち」は淋しい?
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2 件のコメント:
富豪様
長男よりも次男坊のほうがボッチが好き、あるいはボッチでいることを気にしない傾向にあると思いますが如何でしょうか?
次男坊太郎サマ
おっしゃる通りかもしれません。
私自身、次男ですし、結局、次男の方が好き勝手なことを言ってワガママに生きているのかもしれませんね。
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