「一匹狼みたいですね」。一人行動が多い私を評してある人が言った言葉だ。大間違いである。一匹狼と「ぼっち好き」では全然意味が違う。
一人行動が好きなことイコール一匹狼ではない。一匹狼を気取るためにはかなりの器量や気概、覚悟、そして才覚も必要だろう。
一匹狼なら誰にも頼ることなく自分の信念に沿って我が道を突き進む。
私の場合、すぐに人に甘えるし、協調すべきところは協調する。いとも簡単に妥協もする。依存心の塊みたいな部分もある。
一匹狼的な生き方に憧れる若者が増えているようだが、ホンモノの一匹狼と単なるワガママや身勝手とは別モノだろう。
若い頃には、いろんな場所でさまざまな人々に揉まれて社会の現実や身の処し方を学ぶ。そこで喜びを感じたり痛い目に遭うことが大事である。
そういう面倒なことから逃げたいだけで一匹狼という言葉を使うのはどうかと思う。単なる逃避であり脱落だろう。
一人酒、一人旅そのほか「おひとりさま行動」ばかりの私だって、節目節目の協調性にはそれなりに自信がある。人とのコミュニケーションだって不得手だとは思わない。
飲み会に行けば場を盛り上げて楽しく過ごすし、合コンみたいな場面ではちゃんとハシャいだりする。寡黙な人を演じようとしても5分で化けの皮が剥がれる。
それはそれである。友達とワイワイ騒ぐのは好きだ。無理して楽しそうにしているわけではない。純粋に楽しい。
とはいえ、一人でポツネンと過ごす時間も大好きである。それだけの話。一匹狼になどなりたくない。そんな無頼な人になるほど勇気はない。
日本人はもともと農耕民族だし、村社会的な共同生活を基本としてきた。あえてそこから脱線するのは単なる跳ねっ返りだろう。
協調性のない人は社会適合性という意味で劣っているのは事実だし、あくまでバランス感覚をどうコントロールするかが大事だと思う。
その上で「ぼっち」を楽しめばいいだけの話。
逆にムダな労力を使って、やたらめったら群れたがるのもヤボだ。誰かと一緒じゃないと行動できないのはいっぱしのオトナとしてはどうかと思う。
一人旅はちょっとハードル?が高いかもしれないが、一人じゃ酒も飲めない、ランチにも行けないとか言われると大丈夫かと言いたくなる。
一人でいるのが好きなことがワガママだとしたら、いつも誰かと行動したいっていうのもワガママだと思う。
考えてみれば、誰だって本来は「ぼっち」が嫌いではない。愛妻家で子煩悩な父親だって、たまたま家で一人になった瞬間にホッと一息ついたような気分になるのがその証だ。
たとえ家庭円満だろうとそこには努力や我慢が必要だし、うまく折り合いをつけることで成り立っている。本音ばかりではぶつかるから時には無理して合わせる。
「ぼっち」の時間にホッと一息ついても、大半の人は「孤独は怖いもの」という刷り込みがあるから結局は誰かと絡むことを選ぶ。それはそれで正しいのだろうが、そこにストレスが生まれると厄介だ。
無理がたたれば身体も壊れるし心も壊れる。やはり適度に「ぼっち」を楽しむ余裕を持たないと精神衛生上良くないのではなかろうか。
なんだかウザったい書きぶりになってしまった。
私自身が「ぼっち賛成派」だから、どうしても一人行動を是とした前提でアレコレ書きなぐってしまう。
でも、しょせん人間は生まれてきた時も死んでいく時も一人。孤独とうまく付き合っていくことが建設的だろう。
人と接することで得る刺激も貴重だが、一人でボンヤリすることで感度が上がる部分も捨てがたい。
前にも何度か書いたが「無所属の時間」に身を置くことを意識して過ごすことで五感が多少なりとも敏感になるような気がする。
職場や肩書き、家庭とは一線を画した素の自分として行動する時間を持たないと、自分がただの歯車や1つのパーツにすぎないことを突きつけられているようで滅入ってしまう。
なんだか今日は話がとっちらかってしまった。
街中がイルミネーションに彩られる季節である。わざとらしいキラキラ感にゲンナリする日々だが、「ぼっち」の淋しさを認めたくない中高年として、せいぜい強がって「ぼっち」推進論を叫び続けようと思う。
2016年12月14日水曜日
一匹狼と独りぼっち
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2 件のコメント:
富豪記者殿
ぼっちの大先達といえば、我らが風天の寅。車寅次郎がそのものですね。
道草人生さま
寅さんは「ぼっち」の理想型かもしれませんね。
帰ったらあれだけの世話をやいてくれる身内がいるのに、息が詰まったら気の向くままに旅に出ちゃうんだから究極のワガママとも言えます。
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