2021年1月20日水曜日

エロス平和論

毎年暮れになるとその年に亡くなった人を偲ぶ企画が週刊誌などを賑わす。昨年も志村けんさんをはじめ、私の世代にとって思い入れのある人たちが旅立たれた。

 

暮れも押し迫った頃、作詞家のなかにし礼さんの訃報に接した。昭和を代表する偉人の一人だ。


 


ザ・ピーナッツの「恋のフーガ」、ペドロ&カプリシャスの「別れの朝」、菅原洋一の「今日でお別れ」から細川たかしの「北酒場」、石原裕次郎の「我が人生に悔いなし」、TOKIOの「AMBITIOUS JAPAN!」に至るまで実に幅広いジャンルのヒット曲を作り上げた人である。

 

小説家としても直木賞を受賞するなど数々の功績があるが、私が尊敬していた点はエロスを堂々と肯定する姿勢だ。

 

82才で亡くなられたわけだが、この世代の人にしては珍しくエロを全肯定してそれを前面に押し出していたのは素晴らしいの一言だ。

 

戦中戦後の壮絶な体験がその原点にあったそうだ。「エロス」イコール「平和」という信念が過去のインタビューなどからも垣間見える。

 

「愛は人間に与えられた最高の幸福ですよ。エロスは人を愛すること。人が人を愛し、歓喜を味わう、それが平和。エロスがなければ平和もありません」

 

「エロスや不道徳が許されるのが平和、自由の象徴。エロスや笑いを失った社会に平和などない」

 

平和の大事さを「エロ」や「バカ」を基軸に捉える視点にハッとさせられた。ただノホホンと生きてこられた世代の私にとってはとても考えさせられる姿勢だった。

 

エロの意義というテーマである。下ネタなんか嫌いだなどと気取っている人も多いが、好きだの嫌いだのと言えること自体が平和な時代の証だろう。

 

なかにし礼さんの作詞した代表曲の一つ「時には娼婦のように」の歌詞をそんな観点で吟味してみると実に奥深さを感じる。

  

時には娼婦のように 下品な女になりな

 素敵と叫んでおくれ 大きな声を出しなよ

自分で乳房をつかみ 私に与えておくれ

 まるで乳呑み児のように むさぼりついてあげよう

 バカバカしい人生より バカバカしいひとときが うれしい

  

当時、小学生だった私にはただドギマギする歌詞でしかなかったが、人生後半戦の今になってみれば、その哀感というか切なさがよく分かる。

 

いつのまにか社会から大らかさが失われ、ギスギスした空気が漂っている今の時代こそ「エロやバカの役割」は無視できないと思う。

 

ちょっとハメを外すとすぐに“炎上”してしまう息苦しい世の中だと、そのうち笑いやスケベなことにまで矛先が向くのは確実だろう。

 

そんな抑圧された世の中にしてはいけないという警鐘を鳴らしていた偉人の死は国家的損失!だと思う。大袈裟ではなく本心でそう思う。

 

ちょっと堅苦しい話になり過ぎたので、10年以上前に書いたなかにし礼さんの詩の世界を紹介した過去ネタを載せてみる。二つともくだけ過ぎた話だ。でも、そんな話を調子に乗って書ける今という時代の有り難さを痛感する。

 

「恋の奴隷」

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2009/11/blog-post_20.html

 

もう一つ、話の結末になかにし礼さんのエロス平和論を使わせてもらった話も再掲してみる。

 「お尻とスケベ」

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2015/03/blog-post_6.html 










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