2021年3月31日水曜日

桜リグレット


 

春はリセットの季節だ。卒業、入学、就職を始め日本の社会はこの季節を起点に回っている。

 

そんな節目の時期に桜の花が彩りを添える。誰もが持っているさまざまな節目の記憶には桜が寄り添う。

 

だから桜には単なる美しさだけでなく、切なさが付いて回る。花の盛りが短いという理由だけでなく、人々の記憶に寄り添ってきたことが切なさを呼ぶ。

 

10年以上前にもこのブログで桜の切なさを書いたことがある。

 

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2009/03/blog-post_23.html

 

先週末、快晴の花見日和だったから自宅近辺の桜の名所を散策してみた。賑わう人々の表情も自然と柔和になっているようで青空の下、穏やかな空気が漂う。

 



 

チコちゃんに叱られるぐらいボーっと佇んでいた私は、幾度となく見知らぬ人たちに声をかけられた。

 

サインを求められたわけではない。シャッターを押してくれと頼まれただけである。持ち前のサービス精神でバッチリの構図を探して撮影してみた。

 

いい人である。さすがだ。

 

頼んでくるのは家族連れだ。中学生ぐらいの兄妹のいる4人家族や三世代ファミリーからも頼まれた。

 

オバチャンやお婆さんは物凄く嬉しそうな表情、子供世代は鬱陶しそうな表情である。そんな絵に描いたような家族像を眺めてホッコリした気分になった。

 



 

ホッコリした気分がずっと続けば良かったのだが、こちらは一人きりの散歩である。だんだん疲れてくるし、だんだんと妙におセンチな気分になってきた。

 

桜をめぐる思い出が次から次に甦ってくる。人生の節目節目で感じたこと、考えたことを懐かしく思い出す。と同時に既に自分がその頃とは違う次元に生きていることを実感する。

 

人生には第一幕から最終幕までどれどけの区切りがあるのか分からないが、かつて桜を見ながらいろいろ考えていた頃の自分は、もう手が届かないぐらい遠い存在になっている気がした。

 

人生の章立てにおいて、違う章にいつの間にか移ってしまっている感覚とでも言おうか。何だか“置いてきぼり感”がのしかかってきた感覚に陥り、ちょっと息苦しくなった。

 

そんな感覚になるのも桜の魔力だろう。誰もが思い描いていた人生を歩めるはずはない。要所要所で折り合いを付けながら選んだ道を歩く。選んだ道が正しいかは最後まで分からない。

 

そんな葛藤は誰にだってあるが、満開の桜には普段は封印しているそんな感傷的な気分を呼び起こす不思議な力が宿っているように思える。

 

ベンチに腰を下ろし、青空と桜のコントラストを眺めながら妙に気持ちが落ち込んだ。孤独感とは違うのだが、置き去りにされてしまったような切ない気分だった。

 

以前から桜より梅のほうが好きなのだが、その理由もきっと桜が持つそんな魔力のせいなのかもしれない。

 

梅は楚々としているというか、淡々と佇んでいる感じだ。桜には襲いかかってくるような怖さがある。

 

そんな鬱々とした気分でしばし時を過ごす。とはいえうららかな春の休日にそんな気分は似合わない。普段の脳天気な自分を取り戻さないといけない。

 

鬱々した気分を退治するのは脳内回路をエロ方向に切り替えるのが手っ取り早い。

 

おもむろにスマホを取り出し、近々会う予定の女子にLINEを送る。

 

「今度はTバックで来るように。短めのスカートでね!」

 

バカである。

 

でも、切なさに対抗するには刹那的な時間を過ごすのが効果的である。ウジウジ考えている暇があったら煩悩の海に沈んだ方がマシだ。


そういうことである。

 

意味不明な話になってしまった。。。

 

 

 

 

0 件のコメント: