2012年2月6日月曜日

東大夢教授

相変わらずの乱読三昧の日々だ。本を読んでいる時間の「ワープした感じ」は捨てがたい。読んだ本の内容を2,3日後には忘れていることも珍しくないから、私にとっての読書は、そこから何かを得ようというものではない。きっとオンとオフの切り替え装置なのだろう。

酩酊して帰宅して風呂にすら入れないような状態でも、ベッドサイドに積んである本を適当に手にして目を通す。切り替え装置というより睡眠導入剤かもしれない。

電車移動の際とか、一息入れる喫茶店で読書に励むことは少ない。たいてい週刊誌でごまかす。読書は自分の部屋に限る。

最近、一風変わった本を読んだ。東大の総合研究博物館教授の遠藤秀紀氏のエッセイだ。

「パンダの死体はよみがえる」、「解剖男」などの著書で知られる遠藤教授は、爆笑問題とテレビで討論したり、畑違いのバラエティー番組で「鉄っちゃん」ぶりをレポート?したりと、何かとユニークな御仁だ。


エッセイのタイトルは「東大夢教授」。昨年出版された本だ。動物の遺体に隠された進化の謎を追究し、遺体化学というジャンルを切り開いた気鋭の解剖学者ならではの日常やエピソードがわんさか書かれている。

出版社の宣伝文句いわく「学問の快楽をヤケクソで伝導する遺体科学者の日々奮闘」だ。論文でもなく、解説書でもなく、エッセイだから、ある意味、突き抜けた筆致で著者の溢れんばかりの情熱や鬱憤?が描かれている。

マダガスカルやモンゴルの田舎町で、地元の人に奇異な目を向けられながらも現地の生き物を楽しく?解剖していくシーンなどは、具体的な情景を頭に浮かべてドキドキしてしまう。

ある種、スプラッター的?な描写も遺体科学者が手掛けると実に文化的な印象が残る。役目を終えたラクダを食料にしようとする現地人と協力し合って、いわば“生けジメ”にする場面も息を呑む迫力だ。

子どもの頃、理科の授業でカエルなんかの解剖を恐れなかったタイプの人なら全編すべて興味深い内容なんだと思う。

近所の税務署に確定申告に向かった遠藤氏、あわれ車にはねられて税務署の鉄柵に突き刺さった猫の無惨な遺体と遭遇する。遠巻きにする人達を横目にてきぱきと自ら処理。感謝する税務署員相手に税金をマケて貰う交渉?よりも猫の遺体をもらっていいいかと頼む。実にファンキーだ!

日々、遺体解剖に精力を集中したい筆者にとって、大学の事務的な作業や講義への不満なども面白おかしく書かれていて興味深い。

面白おかしいエピソードばかりとはいえ、底辺に流れるのは現在の国立大学への危機感だ。採算や効率化のみが美徳とされ、やれ闇雲にコストを削れ、収益を生み出せといった号令ばかりで、長期的視野での文化学術分野の研究がないがしろにされていることへの嘆きだ。

まさに現場感覚からの悲痛とも言える叫びといえよう。拝金主義ばかりが絶対視されれば、官立最高学府の意味は失われ、尊い研究が立ち行かなくなることに一貫して警鐘を鳴らしている。

思えば、国立大学の独立行政法人化が招いたのは、自由な研究にいそしむはずの世界に競争原理が持ち込まれたことでの混乱だ。企業などからの外部資金を獲得出来ないような分野は研究費が削られる市場原理が導入され、自ずと地味な研究対象は青息吐息になる。

無駄な箱モノ行政でもなければ、役人の天下り専用機関でもない大学が、それらと同じ目線で改革を迫られたこと自体が大いなる失政だったのだろう。

いい年した大人がケータイのゲームに夢中になり、少女アイドルの扇情的な踊りによだれを流し、テレビをつければお笑いタレントの悪ふざけだけが垂れ流される今の摩訶不思議な時代の空気だって、迷走する教育現場のもたらした副産物だろう。

官立大学に対してですら、その存在理由、役割、使命を無視したかのような運営が罷り通っているわけだから、「教養の危機」はかなり深刻な事態なんだと思う。

ちょっと脱線してしまった。話を戻す。

最前線の学者がこういう形で「ニッポンの学問」の歪みを世に問うことは凄く意義深いことだし、画期的だと思う。大臣を更迭された襟立て女代議士サマとか、パフォーマンスだけの事業仕分けに邁進するセンセイ達には是非読んでもらいたい。

そんな日本社会のひずみという観点から読んでも勉強になるし、解剖というチョットおどろおどろしい世界への好奇心だけで読んでも面白い一冊だと思う。

実は、遠藤氏、私とは小学校から高校まで同じ学校に通った。もちろん、頭の構造や高邁な姿勢という点で、私とは月とスッポンなので、仲良く遊んだのは小学校の時ぐらいだ。

小学校の頃、理科の授業中にいつも彼を相手にいたずらばかりしていた記憶がある。猛省だ。よりによって理科である。その後、解剖とか遺体科学という分野を切り開いていくお国にとって有為な人材に実に無駄なことをさせてしまった。

まあ、しょうがない、一見無駄に見えることも大事だという趣旨の話を彼自身どこかで書いていた気がする。

それにしても、同じ学校で小、中、高と過ごしたのに、どうして頭脳ってここまで差がつくのだろう。靴ばっかり磨いて、夜の「部活」に精を出す私と、40歳になってすぐに東大教授になる人物・・。いったい生物学的にどこが違うのだろう。

死んだら彼に解剖してもらって、その秘密を教えてもらいたいものだ。

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