知り合いから聞いた話。
家賃が格安のいわゆる事故物件と知って部屋を借りたが、毎晩毎晩、幽霊が登場して困っているらしい。
深夜になると部屋に置いてある姿見の前で見知らぬ女性が必死にダンスを練習している。
近隣の人に「事故」の内容を尋ねたらダンサー志望の女性が自殺した部屋だったそうだ。
なんとも恐ろしい話である。
霊的なものを見たり感じたりするエスパー体質の人は意外に多い。結構厄介みたいだ。
ふとした時に見えないはずのものが見えちゃうんだから不便だろう。見えちゃっても見ないフリをするクセがつくとか。
さて、霊についてである。
非科学的なことは信じない、そういうことはバカげていると切って捨てることは簡単である。
信じる、信じないという意味では、信じない派が多数を占める。私自身、そういうものを見たことがない。だから積極的に関心を持つこともない。
そうはいっても「霊的なもの」を日頃から意識して暮らしているのが私を含めた普通の人の暮らしだ。
葬儀に行けば真摯に故人を思うし、お墓参りに行けば心から先祖に語りかけたりする。
これって結局は「霊」に対して真面目に向き合っていることである。
3.11の被災地周辺では霊的な話が日常茶飯事らしい。「見た」「会えた」「聞こえた」。そんな話がごく普通になっているそうだ。
あれだけのことが起きたわけだから、ちっとも不思議ではない。むしろ当り前のことかもしれない。
オカルトチックな話ではなく、日常的に霊と関わっているのが日本人のごく日常の姿ともいえる。
京都の大文字焼き、九州の精霊流しなど日本中で霊と係わり合う行事が溢れている。お盆休みという概念だって先祖の霊を迎えるための習慣だ。
葬儀や墓参りの場面では、誰もがオチャらけないし、不謹慎な言動をつつしむ。
霊的なものをまったく信じていないなら、そんな必要はないわけだ。無意識のうちに霊の存在を肯定しているのだろう。
霊魂なんて信じないという人だって、祖先に対して、ろくに供養しなければバチが当たるんじゃないかと無意識のうちに考える。
祟りなんてアホくさいと思う人だって、神聖な場所で立ちションはしない。それが普通だろう。
お祓いに行く、お宮参りに行く、合格祈願に行く、七五三だって然りである。伝統行事、習俗といえでも根本は霊的なものへの畏怖の念である。
俗に無信心、無宗教という言い方がある。これだって一種の方便みたいなものであり、日常生活には日本人の土着宗教心みたいなものがしっかり根付いている。
私は無信心、無宗教だから、忌引き休暇もお盆休みも取りませんなどというホンモノ?はいないだろう。
大安や仏滅の概念、はたまた一週間のうちに日曜を安息日とするという考えも元々は宗教から生まれたものである。
ホンモノの無信心だったら、それらすべてを一切気にしないということになる。さすがに現実的ではない。
なんだか霊的なものと宗教心がゴチャゴチャになってきてしまった。
軌道修正。
私自身、一応、実家は浄土真宗で幼稚園から高校までキリスト教教育の学校に通った。でもいずれの宗教も教義なんか知らないし興味もない。宗教心みたいな感覚には乏しいと思っている。
仏教的なことは葬式の時ぐらいしか体験しないし、クリスマスだって屁のカッパみたいな顔をして過ごし、初詣に出かけることも数年に一度である。
かといって、実家に行けば真っ先に仏壇の前に立ってご先祖様にアレコレと報告や願い事をする。
中年になってからは大殺界や厄年を気にして、引っ越し先を選ぶ時は方位を意識するようになってきた。それっぽい特殊能力を持ったナゾの占い師を訪ねることもある。
無信心、無宗教とは全然違う日本人の土着習俗的畏怖心みたいな感性は年とともに強まってきた。
何かの本で読んだことがあるが、文明にどっぷり染まった日本の都市生活者ほど占いにすがるのだという。
土着宗教的な儀礼が薄らいできた生活の中で、何らかの「シバリ」を求めてしまうのは日本人の特徴らしい。
テレビや雑誌はこれでもかとばかりに占いコーナーを展開している。ああいう習慣は世界でも希なことなんだとか。
ちょっと分かる気がする。
信じる、信じないは別として、ほんの少しでも自分自身の光明につながるきっかけになるのなら、それもまた良しだろう。
弱みにつけ込んでカネをむしり取る悪徳宗教団体や詐欺的な占い師に気をつけて関わっていけばいいのだと思う。
見える、見えない、信じる、信じないということを喧々囂々と議論するより、「世の中にはわけのわかんないこともある」という達観した気持ちでいればいいと思う。
2 件のコメント:
富豪記者殿
今回の指摘は日本文化の特質の一つを言い当てていると思います。
昨今の世界を眺めていると、僕は普通の日本人が抱く宗教観と言うか、信仰心が世界で一番まともだと思っているのですが、いざ、それを説明するとなるとなかなか難しい。でも、それを霊、或は霊的なものへの恐れ、或は敬意と言うとすっきりしますね。いずれにしても仰る通り人智を越えた事を見たり聞いたりした時は「世の中にはわけのわからんこともあるな」という達観が必要だと思います。
道草人生さま
そうですね。達観しちゃったほうが何かと困惑しないですみますわけの分からないことは結構あるもんです。
コメントを投稿