俳優の渡辺徹さんが61歳で亡くなった。「太陽にほえろ」の刑事役でデビューした頃はスラッとした2枚目だったが、その後は超巨漢になっていった。その後、体重管理に努力していたようだが結局は早くに亡くなってしまった。
私も30代の頃に体重がほぼ100キロまで到達したことがあるから、その後の彼のダイエットなどには注目していた。やはり若い頃の不摂生は後々も響くのだろう。
菜食主義みたいにストイックな食生活で長生きするか、暴飲暴食を楽しんで太く短く生きるか。一概にどちらが良いとは決められないが、さすがに61歳は早い。
渡辺徹さんには「赤ウインナー事件」というエピソードがあるそうだ。榊原郁恵さんと結婚してしばらく経った頃、いつも高級ウインナーが食卓に並ぶので「赤いウインナーがなぜ出てこないんだ」とヘソを曲げて家出したらしい。
ちょっと分かる気がする。昭和の男の子にとって赤いウインナーは郷愁を誘う存在だ。そりゃあシャウエッセンのほうが美味しいのは分かっているのだが、赤いウインナーは別次元の至高の一品である。
育ちの良かった?私の子供時代、実家で赤ウインナーが出てくることはなかった。ちゃんと茶色だった。だからこそ外で出会う赤いウインナーに魅了された。原材料が何だか分からないブキミさはさておきアレはアレのウマさがある。
ケチャップをつけた時の赤VS赤の美しさは抜群だし、ソースをかけた時の赤と黒のコラボも男心をくすぐる。今も私は大衆酒場で赤ウインナーがあれば何が何でも注文する。
「赤ウインナー」という固有名詞があること自体がその存在の特別感を象徴している。赤飯や銀シャリといったメデタイ感じにも通じる。わざわざ毒々しい人工的な色を冠に戴く大胆さが素敵だ。
今日はウインナーやソーセージ全般の話を書くつもりなのだが、赤ウインナーの話になるとつい熱くなってしまう。
ウインナーやソーセージ、はたまたフランクフルト等々、名前に定義はあるようだが、今日は全部ウインナーで統一する。
ウインナーと聞いただけで昭和の男の子はヨダレが出た。共食いみたいな下ネタ話ではない。ナポリタンもウインナーが入っているから子供にとってのヒーロー?だった。
私もナポリタンには思い入れがあった。邪魔で仕方なかった悪魔のようなピーマンをどかしてウインナーのカケラをを必死に探していた覚えがある。
お弁当のおかずの定番もウインナーだったし、家での食事でもウインナーを油で炒めてソースをかけて食べるのが大好物だった。
元を正せば、羊やら家畜の胃袋だかにミンチ肉や血を詰め込んだ食べ物である。そう考えると何やら恐ろしく気持ち悪いが、世間のウインナーのイメージにはそんなオドロオドロしい感じはない。印象操作?はつくづく大事だと思う。
先日、銀座のクラブ活動を前に新橋をうろついていた際、いつもは満席の名物的炉端焼き屋に空席があるのを見かけて迷わず突入した。「炉端 武蔵」である。こういう店があるから新橋は楽しい。
中高年なら誰もがこの店の佇まいを気に入るはずだ。特別ウマいものを出す印象はないが、そんなことは二の次だと言えるぐらいの風情だ。もちろんマズいわけではない。
この日はアサリバターやつくね、ニシン焼きなどを食べたのだが、やはり一番嬉しかったのはウインナーである。別に炭火で焼く必要はないのだが、炉端焼き屋で食べるウインナーは普通よりウマく感じる。
青空の下のバーベキューで食べるウインナーと似た感覚だろう。ケチャップまで添えられてホロ酔いの私はその姿を見ているだけで鬱々した気分などどこかに飛んでいく。
何がここまで私を夢中にさせるのだろうか。謎である。普通にちゃんとした肉を食べればいいのにウインナーのほうがナゼか嬉しい気分になる。秘密の中毒成分が入っているのかも知れない。
夏のビヤホールでウインナーの盛り合わせを食べるのも最高だが、冬の炉端焼き屋で突っつくのも最高だ。旬も無ければウンチクも不要。実にすがすがしい食べ物だと思う。
書いているだけでまた食べたくなってきた。いま私の頭の中に浮かんでいるのは、油でベトベトに炒めたウインナーをケチャップとマヨネーズとソースを全部ベタっと塗りたくって頬ばるイメージである。
それこそグルメという言葉の対極にある悪魔のような絶品料理だと思う。
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