2008年11月19日水曜日

政治と門外漢

最近、政治家のブログがヒット数を増やしているらしい。中には人気芸能人ブログ並の注目を集めているものもあるそうだ。

国民の関心が政治に向いている端的な証だ。これも不況が原因だろうか。

寿司屋などでは、板前さんが、客との雑談で政治ネタ、宗教ネタは避けるという不文律があるが、政治ネタに触れない方がスマートという感覚が日本人には根強い。

軍国主義体験、学生運動の末路などのトラウマが国民性に影響していることは確かだろう。政治ネタを熱く語ることが、格好悪いこと、無粋なことという刷り込みが広範囲に浸透している。

インターネットや、ブログの急速な普及は、こうした政治への消極姿勢に確実に変化をもたらしている。増殖するブログは、ある意味、国民総記者時代の到来を意味する。

刷り込みによって政治ネタを語ることを封印されてきた人々の漠然としたうっぷんがはらされるツールになっている側面もある。

官僚機構が実際の政治の枠組みを支配し、誰が首相になろうと、どこが政権を取ろうと、国の在りようが大きく変わらなかったのがこれまでの現実だ。

凝り固まったこのスタイルが限界に来ていることを国民自身が肌で感じていることも政治への関心の高まりと深く関係している。

度重なる政権放りだしに続いて、選挙のために選ばれた首相は、経済問題をタテに唯一の役目だった解散のことも忘れ、何がしたいのかサッパリ分からない。

深刻な経済問題を前に、政治空白を避けるために解散が先送りされたところまでは一応、理にかなっているが、肝心の「その先」が見えないまま。

まさに「いまそこにある危機」への切迫感が感じられない政権運営に国民の困惑は深まり続けているのが現状だ。

最近、漠然と感じるのが、職業政治家の限界。麻生首相の行動パターンも結局、政治のプロとしての予定調和の上だけで成り立っているように見える。

先人の行ってきたパターンだけが、自らの行動規範になっているように見えるが、これって結局、祖父も義父も首相経験者という特殊な環境にある麻生首相の宿命的なものだろう。

目新しいことをしようにも、せいぜい、閣僚名簿の発表を官房長官にさせずに自分で買って出るぐらいのレベル。スーパーに出かけて買い物客と談笑したり、学生と居酒屋で懇談するようなパフォーマンスも、前時代的な狭い枠での思考のように思える。

先日急きょ行われた小沢氏との緊急党首会談もなんだかサッパリ意味不明。ケムに巻くような話を難しい顔をして語る姿は、確かに総理大臣ぽいが、結局、「既成概念の中の総理大臣」を演じているだけのように見えてしまう。

かといって、対抗馬である民主党の小沢党首も、これまた「政治のプロ」としての臭いがプンプン。ひょっとすると小沢氏がイメージする総理大臣像は、麻生氏よりも既成概念に支配されているかも知れない。

二世、三世議員ばかりが増える政治の世界は、過去の踏襲、前例重視の傾向がますます強まってしまう気がする。これこそが世襲の弊害だろう。

どこの世界だって偉大な先代のあとを継いだ者が、先代以上に活躍するケースは少ない。大半は小さくまとまってしまう。政治の世界でこういう縮小が生じれば国にとって悲劇だ。

国民の直接投票で大統領を選ぶ米国は、予備選を含めた候補者のなかで、もっともプロっぽくない人物を選んだ。プロっぽくない人物が選ばれる制度は、リスクもあるだろうが、閉塞感でどん詰まりのわが国から見ればうらやましい。

どんな分野でも改革に必要なのは、ただ一つ。思いきった決断だ。これができるのは、結局しがらみのない人であり、しがらみのない人って、結局その道のプロ以外の人ということになる。門外漢の知恵はあながち捨てたものではない。

今日は、微熱があるので、こんな楽しくない話をダラダラ書いてしまった。ちょっと疲れた。

外国人とか、高校生とかが政治をやったり総理大臣になったほうがいいのかもしれない。

最後は投げやりになってしまった・・・。

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