2012年8月15日水曜日

卑怯か否か

最晩年を迎えている戦争体験者が語る生々しい当時の記憶。こんな企画がメディアを賑わす時期だ。

やはり8月は日本人にとって特別な季節であり、戦争などカケラも知らない私でさえ、当時の悲劇的な状況に思いを馳せる。

元軍人の告白などでは決まって「卑怯者になりたくない一心で・・・」といった表現を目にする。あの頃の日本人を突き動かしていたのは、この言葉に尽きるのかもしれない。

「卑怯者」。最近、めっきり聞かれなくなった言葉だ。権利ばかり声高に主張し、責任や犠牲を二の次にするヌルくて卑しい風潮が21世紀のわが国の世相だろう。

偉そうなことを書いている私自身、すぐに楽な方に逃げたがり、命の洗濯とか、癒されたいなどと甘いことばかり言っている。

卑怯なことは本能的に避けるように生きているつもりだが、あの時代の中年の男に比べれば極めて情けない姿だと思う。

まあ、自分のことは棚に上げよう。

卑怯か否か。この一点でコトの是非を判断する思考性はやはり大事だろう。実に単純な基準だが、大半の悩ましい問題はこの一点でクリアになる。

問題に直面した時、微妙な判断を強いられた時、常に卑怯か否かという基準に照らして判断すれば、後々後ろ指をさされる事態にはならないはずだ。

利己的に過ぎる結果偏重主義が罷り通る今の世の中では、結果を生み出す過程で、卑怯か否かという真っ当な判断基準がないがしろにされ、卑しい暴走が多発する。

いつのまに世間の金科玉条みたいになった「コンプライアンス」などという言葉も、卑しい暴走を抑えるためにカタカナ言葉を有難がって使っているだけで、昔の日本人には必要の無かった言葉だ。

卑怯か否か、恥ずべきことか否か、身体に染みこんでいたこの基準があれば変な外来語を引っ張り出して大げさに構える必要はなかったわけだ。

「責任逃れ」だとか「頬かむり」だとか、その程度の言葉で非難される事件や問題の大半が、実際には「卑怯」が根本的な理由だと思う。

怠慢や無責任を追及する時は「卑怯」という表現に置き換えた方が的確だし、インパクトも強い。積極的に卑怯という強い言葉を使うことで、日本人の美徳である気高い精神性が刺激されるような気がする。

放射性物質の流出が今も続く原発問題。「想定外」とかいう言葉で誰も責任を取らない現状はどう考えても異常だ。これ以上「卑怯」なことはないと思う。責任が放置されたままでは改善などあり得ないのはバカでも分かる話だ。

原子力安全委員会、原子力安全保安院。事故を防ぐために設けられている国家機関であり、莫大な税金を使って運営され、原発のすべてに全面的な権限を持つ。

東京電力は、一連の構図の中では末端機関に過ぎない。そんな末端機関ですらコストカットなどの反省ポーズを見せているが、絶対的存在のはずの両機関は知らん顔で済ませている。

試しに両機関のホームページを覗いていただきたい。勇ましく使命だとか役割を厚顔無恥にさらし続けて悦に入っている。おぞましく醜いインチキ集団だろう。天下一品の「卑怯者」だ。

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