人間誰しも場面に応じて様々な自分を演じ分ける。「ありのままの~」などと言ってみても、人前に出れば朝も昼も夜も何かのフリをする。
職場に行けば恐い顔した上司を演じ、エラい人の前では、忠誠心に厚い気の利いた男のフリをする。
夜の街に出れば、本来より3割増しぐらいデキるビジネスマンを演じ、色っぽいスナックのママには、奥さんに冷たくされて淋しい男のフリをする。
帰宅すれば、本当はラブラブな奥さんに接待酒がシンどかったと甘えたフリをして、朝になって子供と顔を合わせれば威厳のある父親っぽい顔を必死に作る。
大半の人が無意識のうちに、演じたり何かのフリをすることに必死になっている。極端に言えば「いい人だと思われたい」「嫌われたくない」という心理が社会を何となく安定化させている。
「女は生まれながら女優なのよ」。そんなキザったらしいセリフをよく耳にする。平たく言えばウソつき女の言い訳である。
だとしたら、男だって生まれながらの男優である。生まれながらのAV男優みたいな男だっている。
虚飾、化かし合いなどと言うと夢も希望もないが、男も女も子供も年寄りも常に何かを演じている。それこそが世の中の秩序を形作っている。
演じているからといってウソとは違う。決して悪いことでもない。TPOに応じた人格の微調整である。振れ幅が大きいからといってフェイクとも言えない。
エラい社長さんが、秘密クラブに行って「アバババ~。お尻がかゆいでちゅ~」と叫ぶ姿は彼本来の姿だし、重厚なオフィスで威厳に満ちた表情でM&Aを決断する瞬間の惚れ惚れする姿もまた彼本来の姿である。
赤ちゃんプレイに没頭する自分、辣腕ビジネスマンとしての自分。どちらもホンモノだが、その時々で演じ分けている。
いろんな自分を使い分けることは結構エネルギーが必要だ。使い分けが上手い人ほどエネルギッシュに活躍できるのだろうし、逆に使い分けが下手な人が心を病んだりする。俗に言う「切りかえ」と同じ意味合いだ。
「本当の自分」という言葉も怪しいものである。場面に応じてさまざまな「フリ」をするのが普通の人間だ。何を演じている時が心地良いのか、どんなフリをすることが多いのか、その傾向こそ「本当の自分」を表すものだと思う。
恋愛が面倒だ、セックスレスだとかいわれる若い世代は、こうした一連の使い分けを避けているのだと思う。
好かれたい、嫌われないようにしたい、意のままにしたい等々、そんな感情を達成するには、その欲望に応じて自分を様々に演出することが不可欠だ。
自分を少しでも良く見せたい、盛ってると叱られようとも大げさに自己アピールしたい。ささいなことでも相手をヨイショしまくって、ことさら相手のことばかり考えていると伝えたいーー。
そのためには当然、様々な「自分」を演じ分ける必要がある。そんな面倒なことはゴメンだと敵前逃亡?しちゃったら色恋などとは無縁になる。
色恋に限らず、こういうことを面倒くさいと感じた段階で、何事もその先の展望は開けないのが現実だと思う。
突き詰めれば「なってみたい自分」を頭に描いて演じ分けに励めばいいと思う。一種のポジティブシンキングである。
しょせん、そんな自分にはなれないのだが、「演じてみる」、「フリをする」ことで少しでも近づければ儲けものである。
2015年9月2日水曜日
いろんな自分
ラベル: 世相
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