昔を懐かしむ話ばかりするオヤジは嫌いだ。と言いながら私自身がそんな感じである。
毎週のように出かける焼鳥屋の大将とは、いつも昭和懐古録みたいな話で盛り上がる。
私より3歳ほど年上の大将は、高校を出てから料理の道一筋だったから、IT化が進んだイマドキの社会の仕組みがチンプンカンプンらしい。
だから話題にのぼるのは大らかだった昭和の話ばかり。ジュークボックスが懐かしいとか、駅の改札には職人技を持つキップ切りがいたとか、そんな話で盛り上がる。
確かにあの頃のキップ切りは凄かった。リズミカルにカチャカチャと音を鳴らしながら一心不乱に作業していた。キセルをしても何故かすぐに見つける。不思議だった。
駅といえば、タン壺もいつの間にか昔話になった。カー、ペッ!って下品な声でタンを吐き散らしていたオッサンがやたらといたから、駅には必ず用意されていた。
今は街中でカー、ペッ!がやりたくなっても吐き出す場所がない。皆さんどうしているのだろう。飲み込むしかないのか・・・。
あれもきっと喫煙率が高かった時代ならではの駅の標準装備だったのだろう。
先日、仕事で新たに取引した相手と書類をやり取りした際にも、改めて時代の流れを感じた。
個人情報がどうだの、反社会勢力との関係がどうだのといった画一的などうでもいい?書類に仰々しくハンコを押すのだが、あんなものも昔は無かった。
今更ではあるが、昔は大らかだった。善し悪しは簡単に判断できないが、平成という時代は徐々に世の中を窮屈にしていった時代なのかもしれない。
インターネットとスマホの登場で、何事も昔より遙かに便利になった。昭和礼賛みたいなタイプの人間でも、タイムマシンで昭和に戻ったら不便で不便で仕方ないはずである。私だってそうだ。
旅行を例にとっても大違いだ。電話帳より分厚い国際線の航空時刻表を取り寄せ、アチコチの経路を調べたり、英文が得意な人に作ってもらった手書き文書をFAXしていろんな手配をしていた。
あんな作業はもう絶対に出来ない。
飲み会やデートの待ち合わせだって、遅刻したらアウトである。連絡の取りようが無かった。
つくづく思うのだが、今の若造は固定電話しかなかった時代の切なさを知らない。これって残念なことだと思う。
女の子と話すつもりが、そのコの父親が電話に出ちゃった時の恐怖である。ああいうビビリかたや気まずさを味わってこそ人の道を知る。そういうものだ。
あの時代は「オヤジが電話に出ちゃっう事件」に象徴されるように、何事もスムーズに運ばなかったことが特徴だった。
アイドルの顔が見たければ明星や平凡を本屋に行って買わなきゃならなかったし、レコードを買うのも予算的に痛かった。
シングル盤なんて、たった2曲のためにレコード屋に足を運んでお金を出して手に入れたわけだから御苦労な時代だった。
レンタルレコードという商売が出てきた時は心底ありがたかった。今は音楽を無料で楽しめたり、画像や動画もネットで見放題だ。
確かに便利だ。昔の人間からすれば今の若者にうらやましさも感じる。エロ動画だって簡単に見られるし・・・。
でもその一方で、昔の若者が感じた独特のワクワク感みたいな感性が磨かれないようにも感じる。
こういうのが中高年のお節介かもしれない。でも、レコードやブロマイドを買いに行く時のワクワクした気分、なかなかエロ本が買えないドキドキした気分等々。そんな感性が鈍感になっちゃうのはもったいない。
まあ私だって、便利さやスムーズさを覚えてしまった今となっては、そっち側には戻りたくない。それは当然だ。でもあの頃、いちいち不便だったり、ギクシャクしたことが「大人の階段」そのものだった。
ちょっと大げさかもしれないが、“非スムーズ”だからこそ覚えたことはたくさんあったし、スムーズにコトが運ばないから知恵や工夫が生まれた面もあると思う。
すくなくとも「機微」みたいな感覚に対して今の時代より敏感だったのは確かだろう。
この頃、つくづく「機微」に敏感でありたいと願っている。
なんだかフニャフニャした話になってしまった。
2018年4月6日金曜日
機微
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2 件のコメント:
強く同感です。
うまくいかないというか、面倒臭いことだらけでしたが、それを経験しているからこそ、仕事も人生もうまくいかないのが当たり前、やり直せばいいやって思える自分がいます。でも若い人はこれをすごく嫌う、繰り返し、やり直しが罪悪という気持ちがものすごく強いように感じます。
答えを出すのにそう焦らなくてもねえ、と思う世代にいつのまにか自分もなってしまいましたね。
道草人生さま
この歳になるとメンドーはすべて避けたくなりますが、メンドーなことから教わったことが今の自分のすべてでもあるから、なかなか厄介ですよね。
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