時々若い人の味覚がうらやましくなる。イヤミでも何でもない。初めて食べるものに感動する機会がまだまだいっぱいあることがうらやましい。
中高年になれば、若い頃よりも口がおごる。結構上等なものを食べる機会は増える。その結果、若い頃は喜んで食べていたモノを敬遠し始める。
その昔、ウナギといえば実家の冷蔵庫に時々こっそり入っていた小型サイズの真空パックが定番だった。大好物だった。毎日でも食べたいぐらいだった。
今では食べたいと思わない。大人になるに連れウマいウナギをせっせと食べるようになったせいである。
いわば「知ってしまった哀しみ」である。
中高年の暮らしにおいて「知ってしまった哀しみ」はいろんなジャンルに影響している。
新入社員の頃に着ていたような安いスーツは着られない。初めて一人暮らしした安普請の部屋だって今はゴメンだ。
生活が困窮しちゃったらそんなことは言えないが、順当に歳を重ねてきたら誰だってそうなる。
私にとっての食べ物に関する「知ってしまった哀しみ」はウナギとウニとカニが代表的だ。
昔はちょっと臭みや苦みがあって色もドンヨリしたウニだろうと嬉々として食べた。さすがに今は無理だ。上モノを知らなければそんなウニでも幸せだったから、人間の感覚はつくづく恐ろしい。
カニも然り。カニは本当は臭くない!と知った日から、カニに対する意識は変わった。大好きだから今もバイキングなどの臭いカニもガツガツ食べるが、やはり昔のような感動はなくなってしまった。
良いモノを知ることは喜びだが、知ると同時に哀しみが始まるわけだ。なんとも哲学的な話だと思う。
タバコや酒も同じ。葉巻なんか最たるものだ。知らないままでも生きていける。知ってしまったことで喜びを得るが、自ら身体に害を与えちゃうわけだから哀しみも伴う。
女性についても同じことが言えるかもしれない。ハニワや土偶みたいな顔立ちのヘチャムクレちゃんと熱烈な恋に落ちたまま一生を終えれば、それはそれで幸せである。
しかし、美人さんと仲良くなったら、ヘチャムクレさんとの関係は脆くも崩れ始める。知ってしまった哀しみといえる。
美人さんや峰不二子みたいなボッキュンボンを知ってしまえば、そんな路線を追い続ける。まさに知ってしまった哀しみだ。
恋を知った少年は恋を追い求め、その後、青年になって純愛を知る。青年は次も純愛を探し求めるが、、歳を重ねるうちにナゼか変態の道を知ってしまう。
そして、大人になった青年は純愛を忘れて変態を極めていく。変態には変態が集まってくるから、いつしか「変態が標準」になる。ふと空を見上げて「オレの生きざま、こんなはずじゃなかった」と後悔しても後の祭りである。
知ってしまった哀しみを語り出すとキリがない。
もちろん、哀しみを感じる裏側には、大きな喜びがあるわけだから悲観する必要もない。
こちらは鶏の白レバ刺しである。今では鶏のレバーですら刺身で提供する店が絶滅しかけている。あのウマさを知ってしまった者としては、ありつけないことは哀しみである。
なじみの焼鳥屋さんで、時折、希少な白レバーの刺身に出会える。興奮する。夢心地で味わう。
これを知らなくても世の中にはいくらでもウマいものはある。でも、知ってしまった以上、無性に食べたくなる時がある。
そんな執着心こそが「哀しみ」だが、食べられた時の喜びは哀しみよりも遙かに大きい。
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