本格的な蕎麦をあまり食べなくなったのはいつ頃からだろう。東京生まれの東京育ちである私にとって、うどんやラーメンより蕎麦のほうがソウルフードである。
「蕎麦屋で一献」は江戸っ子の基本姿勢だが、ここ数年、蕎麦に対するモチベーションが上がらない。
きっと、「ゆで太郎」のせいである。時々、東京のアチコチにある「ゆで太郎」に行く。普通に美味しい。いや、ちゃんと美味しい。街場のヘタレた蕎麦屋よりよっぽど美味しい。
ここ10年ぐらいで急に増えた気取った店構えの小洒落た蕎麦専門店よりもウマいと思うこともある。
ゆで太郎という安直(失礼!)な店でウマい蕎麦が食べられるわけだから、古武士みたいな顔をしたオヤジがやたらと仰々しくもったいぶっている専門店で食べるのがイヤになっちゃったのかもしれない。
ゆで太郎、恐るべしである。
もちろん、職人技を突き詰めたような名店の蕎麦がウマいのは分かる。私も一昔前まではそんな店にちょくちょく足を運んだ。
山梨の長坂にある名店「翁」まで蕎麦好き達と日帰りで食べに行ったこともある。荻窪の「本むら庵」にも年に何度も足を運んだ。会社から近い雑司ヶ谷の隠れた名店「和邑」にもちょくちょく出かけたのに最近はすっかり蕎麦から縁遠くなってしまった。
ゆで太郎、恐るべしである。しつこいか。
というか、何事においても感度が鈍くなっているのだろう。飲む酒を選ぶ時もそうだが、若い頃よりこだわりが無くなってきた。
食べ物や飲み物、店選びや着る物だろうと、そこそこ以上のモノなら何でも良くなっている。肩の力が抜けたといえば聞こえはいいが、自分の中の鋭さが錆びてきているようだ。
もっと鋭くならないと。どこからかそんな声が聞こえてくる。あまりヌルいままだと老け込んでしまいそうで要注意である。
ちなみに、蕎麦に日本酒といえば、大人の嗜みの最たるものみたいなところがあるが、私の場合、体質の関係か、蕎麦と日本酒をセットで飲むと気持ちが悪くなる欠点がある。
だから蕎麦屋で飲む時は焼酎専門だ。麻布にある「更科堀井」の名物・蕎麦焼酎の蕎麦湯割りなんかは最高だ。でも、ここにももう3年ぐらい行っていない。
ゆで太郎、恐るべしである。
先日、銀座のオネエサンと食事をする機会があった。長い付き合いだから義理みたいな同伴出勤である。別に食べたいものが浮かばなかったため、オススメだという蕎麦割烹に連れて行かれた。
8丁目の「流石Le蔵」という店。2丁目にある人気蕎麦店の姉妹店らしい。場所柄、同伴客にもウケの良さそうな雰囲気。やたらとワインメニューが豊富なあたりがイマドキっぽい。
蕎麦にワイン・・・。昭和人である私には単なる謎である。
蕎麦以外の一品料理がなかなか良かった。つまみセットみたいな気の利いた盛り合わせもあって、蕎麦味噌のような酒好きを喜ばせる酒肴もある。
炭火焼きメニューも豊富で、この日は羊と鶏を注文した。上質な肉を使っていたし、焼きも丁寧。とてもウマかった。
蕎麦屋で飲む際の王道の一品である「そばがき」も頼む。何だかババロアみたいな一品が出てきた。私の知るそばがきとは異質すぎた。ちょっと苦手。
で、シメに蕎麦を注文する。一品料理の質が良かったから、久しぶりに無言でうなってしまうような蕎麦を期待する。
結論としては、普通だった。更科のような白っぽさではなく、田舎蕎麦のような濃い感じでもない。王道といえば王道だが、さほど特徴的な感じはなかった。私の期待が大き過ぎたせいだろう。
蕎麦湯はドロドロで良かった。程よい質感の隠れ家的料理屋でシメに蕎麦をちょろっと味わうという使い方には良い店だと思う。
綺麗どころを前に、あまり食べ物のウンチクを語るのもヤボである。それ以前に、私自身がそこそこウマければ何でもグダグダ言わずに食べるような鈍感太郎になりつつあるわけだから、その場が楽しければ充分である。
そして、御勘定を終えて店を出た時、あの言葉が私の脳裏に浮かんだ。
ゆで太郎、恐るべし。
そういうことだ。
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