気づけば秋である。今年も残り3ヶ月ちょっとだと思うと、肛門屁の出口、いや、光陰矢の如しである。
食欲の秋である。今年は夏バテがキツかったから、松茸やら生のイクラが妙に嬉しい。夏が終わったことを実感する。
この画像は新富町のお寿司屋さん「なか山」で撮った。シャリが美味しい店なので握りをがんがん食べたいところだが、旬の肴を前にすると酒中心の時間になってしまう。
思えば土瓶蒸しは不思議な食べ物だ。夏の盛りには決して食べたいとは思わない。蝉時雨には絶対に似合わない一品だ。
ところが、秋風を感じ始めた途端に急に魅力的な一品として浮上する。季語みたいな食べ物である。
味に関してもウマいマズいを超越した存在だろう。もちろん、滋味溢れる味わいは単純に美味しいが、あくまで主役を張るようなウマさとは違う。
極端に言えば、土瓶の蓋を外した瞬間の香りと見た目がすべてだ。目に飛び込んでくる松茸の姿にそそられ、鼻をくすぐるアノ香りによって脳の中の幸せスイッチが押される。
“ファーストアタック”こそが土瓶蒸しの立場を支えているわけだ。ぶっちゃけ話みたいになるが、土瓶蒸しが残り半分ぐらいになると誰もが本音では飽きちゃう。
その昔に流行したランジェリーパブみたいだ。入店して最初の5分ぐらいはその光景にドギマギしてムホムホするが、慣れちゃうと何も感じなくなる。
我ながら変な例えだと思う。脱線した。軌道修正。
この日は丸のサンマが無かったのでさばいてあるやつを焼いてもらった。サンマは焼くのが一番だ。
肝が無いのは残念だが、握り用だから小骨はいっさい無い。赤ちゃんかお爺さん向けみたいな食べ方だが、見方を変えれば贅沢な一品である。お寿司屋さんならではの焼サンマの楽しみ方だろう。
この日はこれ以外に毛ガニを少しもらい、カツオを刺身で味わい、コハダとガリ、たくあんを細かく刻んでもらって酒のツマミにした。
というわけで、相変わらず握りは少ししか食べられなかった。毎度のことだが、寿司好きとは言えないパターンに陥ってしまった。
旬を楽しむ小粋な男のような書きぶりだ。でも、早めの時間にそんなヌルい食べ方で終わってしまうと遅い時間に小腹が空く。
こうなると、小粋なつもりどころか最低最悪のヤボな時間が待っている。カップ焼きそばである。
なぜ私はカップ焼きそばを自宅にストックしてしまうのだろう。買わなきゃ食べずに済むのにいつだってウチに常備してある。
ペヤングがあるとついつい食べちゃうから、ペヤングは買わないと心に決めて実行しているのに、見慣れぬ他のカップ麺を見ると反射的に買ってしまう。
カップ焼きそばのアノ毒々しい見た目、毒々しい香り、毒々しい味わい、どこをとっても悪魔的な魅力に満ちあふれている。
土瓶蒸しをランジェリーパブに例えるならば、カップ焼きそばはいったい何なんだろう。
峰不二子みたいな愛人だろうか。いや、それはそれで飽きちゃうこともあるだろう。数十年連れ添った奥さんだろうか。いや、それもまた意味合いが違う。
時々思い出す初恋の人かもしれない。記憶の中で美化され続けて、飽きるどころか、時折無性に恋しくなる。
私にとってカップ焼きそばは初恋の味である。
意味不明な結論になってしまった。
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