このブログを読んでいる知り合いから「最近は下ネタが少ない」とお叱りを受けたので今日はワイ談です。
死語になった下ネタワードの代表格が「へアヌード」である。90年代初めに世の中を大騒ぎさせた“ヘア論争”は特定の年代の男子にとっては非常にインパクトが強かった。
いま考えれば、まさに不毛な論争だった。ダジャレです。すいません。
ウィキペディアで「ヘアヌード」を調べると実に面白い。あの時代を覚えている男にとっては読み物として充分に楽しめる内容にまとまっている。
ネットを開けば無料動画でもノーカット丸出し、満漢全席!?が当たり前になった今の時代からは想像も出来ないほど牧歌的だった気がする。
陰毛が写っているか否か。このテーマは昭和の頃に思春期を過ごした男子にとっては、米ソ冷戦の行方より重大な関心事だった。
海外旅行土産の雑誌はアンダーヘアが写っているのが当然だったが、あれはあくまで「外国人の密林」。当時の青少年にとって「日本人の密林」は屋久島の縄文杉のように未踏の世界だった。
90年代初めに実質解禁となったわけだが、解禁とともに世の中から失われてしまったのが想像力、妄想力のたくましさである。
本気で淋しいことだと思う。今の時代に思春期を迎える男子達に心底哀れみを覚える。気の毒である。
想像をかき立てることが大人への階段だった。禁断のノーカットエロ本を入手した時の感激や、いざ本物を間近で見たときの達成感は強烈だった。
今や何の苦労もなく、ネット動画ですべてが見られるし、いざ本物に対峙できたとしても脱毛全盛だから、そもそも密林が伐採されていることも珍しくない。
隠されている、簡単に見ることができないからこそ神秘であり憧れを募らせる。渇望感こそ人間にとって大切なモチベーションだと思う。
和装のうなじに惹かれるのも全てを包み込んだ衣装のせいで、女性の魅力的なラインがそこしか垣間見えないからだろう。
スッポンポンの女性を前にして、うなじをじっくり眺める男がいないのが何よりの証拠である。
ミニスカートから覗く脚線や胸元の開いたドレスにドキッとするのも、肝心な部分が見えないことが理由だ。
やはり、真っ裸の女性を前にしたら脚や胸元を凝視することはない。秘すれば花という言葉に通じる真理だ。
その昔、筒井康隆の短編だったか、記憶が定かでは無いのだが、風刺の効いた小説で、未来の社会におけるエロを描いた話があった。
ヘア解禁のあと、局部モロ出しも当たり前になると、その次は内臓を見たくなって、内臓画像がエロ本みたいな対象になり、しまいにはガイコツの姿こそ究極のエロになっていくという話だ。
レントゲンのガイコツ画像を見て男達が狂喜乱舞、大興奮に陥るわけだ。実に哲学的?な未来予想のように思えた。
ヘアヌードの話から随分と関係ない方向に話が飛んでしまった。
思い返してみると、牧歌的だった昭和の頃に少年時代を過ごしたことは幸せだったのだろう。
今よりも禁断の世界が多かった。だから必死に想像し妄想し、仲間とともに研究に励み、突破することへの創意工夫をこらした。
そこから生まれた悲劇喜劇もいっぱいあった。あの情熱やエネルギーが若さであり、大袈裟に言えば生きる悦びだったのかもしれない。
なんだか堅苦しい書きぶりになってしまった。
最近は気のせいか、ダボダボの服を着た女性が多いような気がする。ハヤリなんだろう。男としては少し淋しい。あまりダボダボだと想像力、妄想力を発揮するのも一苦労?である。
暑くなる季節だし、女性の皆様には面積の少ない服装で闊歩してもらいたいものである。想像力、妄想力という社会にとっての活力の根源を枯らさないためにも切にお願いしたいものである。
ジェンダー、ジェンダーと騒がしい今の時代、こんなことを声高に叫んでいると逮捕されそうだが、大半の男がごく普通にそう思っているのは確かだ。
2 件のコメント:
ジェンダーと騒ぐ方々には、下ネタが少ないとお叱りを受けるこのブログで、視野を広めて世間というものを知ってもらいたいものです。
コメントありがとうございます。
今後も適度に下ネタを投入しようと勇気づけられました(笑)
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