知恵の悲しみという言葉がある。作家・開高健が残したものだが、経験や年齢を重ねるうちに素直に喜べなくなったり、満足感のハードルが上がってしまうことを言う。
知ってしまった哀しみと言い換えることも出来る。子供の頃はスーパーで売っている安い真空パックのウナギに感動したのに、大人になってウマいウナギを味わえば、昔の喜びは消え去ってしまう。
初めて手に入れたマイカーがボロ車でも感激したのに、その後、ランクアップを重ねればボロ車には見向きもしなくなる。
加齢とともにあらゆる場面で「知ってしまった哀しみ」に直面する。向上心を持って上昇することは大事だが、その分、小さな喜びや感動を失っていくのが人生なのかも知れない。
私自身、たとえば若い頃は単に露天風呂があるだけで嬉しいから温泉選びにとくにこだわりは無かった。ところが、いまや泉質がどうだ、部屋に露天風呂が付いているか、夕食は部屋食か等々、ワガママなことばかり頭に浮かぶ。
愛車の冴えない国産車を自慢しながらピカピカに磨いたのも今や昔、今となっては、やれジャガーはどうだ、マセラティもいいぞ等々、見栄を張ったようなゴタクばかり並べる。
意識しているつもりはなくても、徐々にワガママになり贅沢になっていく。これってなかなか厄介なことである。
話は変わるが、殺されちゃった紀州のドンファン氏も、ある意味、知ってしまった哀しみのせいで悲惨な末路を迎えたのだろう。
本来、自分のことを相手にしないような妙齢の魅力的な美女が金目当てとはいえ自分になびいたら幸せな錯覚が始まる。そして結局「もっともっと」でエスカレートしていく。
財力を武器に取っ替え引っ替え女性に入れあげていくうちに冷静な判断力も失われてしまったのではないか。
ハニワや土偶みたいな顔立ちの女性と恋に落ち、その恋を実らせ、ヨソ見する暇もなく生涯仲良く暮らせるような人は、ある意味とても幸せだと思う。
幸か不幸か、凄い美人さんやボッキュンボンの魅惑的な女性とネンゴロになってしまえば、ついついそんな路線を上書きしたくなるのだろう。
変な話だが、高級ソープの物凄さ!?を知ってしまうと大衆店には行けなくなるような感覚かもしれない。
食べ物と比べたら悪いが、似たような感覚だ。ウマいカレーライスを知ればもっとウマいカレーライスが食べたくなって、凝り性な人なら終わりなき追究を続ける。
ウマいカレーを知らずにいれば、いや、“もっともっと”を求める執拗さを持たなければ落ち着いた日々が過ごせるのに「強烈な印象」という厄介な魔法が時に人を狂わせる。
恋を知らない少年は一心に勉学に励むのに、恋を知ってしまうと頭が混乱する。その恋の印象が強烈だと、その後も恋を求め続ける。
青年になって純愛を知ると、美しい純愛を探してさまよう。もっと良い相手がいるはずだ、もっと素敵な純愛を味わいたいなどとエスカレートしていく。
スケベ太郎みたいな人だって同じだ。ふとちょこっと足を踏み入れた変態の世界。初めのうちはシャレで済んだはずが、気付けばどっぷりと変態の道を歩み始める
変態的行為が標準になれば、いつしか変態の自覚も無くなり、どんどんエスカレートしていく。これまた知ってしまった哀しみである。
そんな変態スケベ太郎だって、もともとは上に書いたような恋すら知らない少年だったわけで、大人の階段をのぼりながら「もっともっと」という姿勢がヘンテコな方向に進んでしまうわけだ。
覚醒剤などの薬物に手を出す人だって、最初はほんの出来心だったはずだ。自ら常習者になろうと思って始める人はいない。
中毒物質と話をマゼコゼにするのは違うような気もするが、「もっともっと」という執着心は一種の中毒性があるのも確かだ。
あらゆる分野のマニアやコレクターと呼ばれる人も同様だ。そういう執着気質がある人なら、一歩間違えばさっき書いた変態スケベ太郎になっていてもおかしくはないわけだ。
何が書きたかったのかよく分からなくなってきた。
やはり、足るを知るという精神と、何事においても過度な執着心を持たないように意識することは大事だと感じる。
そんなフラットな気持ちで暮らしているほうがきっと平穏無事な日々を過ごせるのだろう。
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