2023年7月10日月曜日

ジャンク魂


「マックなんか食べるんですか」。そんなことを言われることがある。このブログを読んでくださっている皆様なら私がマックも吉野家もペヤングも好きなことをご存知だろうが、日頃、スカシた姿しか見せていない人からはジャンクフードに無縁な高尚な?人間だと勘違いされる。

 

ウッシシである。人間はしょせん見栄を張って生きている。上品な方向に錯覚してもらうのは悪くない。私は昭和40年代に生まれた男の子の成れの果てである。ジャンクフード隆盛期に育ったからあの悪魔的、中毒的なウマさのトリコである。

 

マックのフィレオフィッシュの下のパンとダブルチーズバーガーの上のパンを外して合体させる「フィレオダブチ」を満面の笑顔で頬張ると心の底から幸せを感じる。

 

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2021/10/blog-post_13.html

 

寿司通を気取って昆布締めの加減がどうだの煮蛤のツメがあーだのと語りたがる一方で、結局はジャンクフードを口に入れた瞬間の攻撃的な美味しさを楽しむことは捨てられない。

 

世間体だの人の視線だの自尊心だの大人の矜持みたいな余計なものが無ければ、むしろジャンクフードだけ食べて生きていきたいと思うほどだ。

 



先日、ウーバーで「スパゲッティーのパンチョ」からミートソースとナポリタンをデリバリーしてもらった。パスタ業界におけるジャンクの雄?である。“パスタ”でもなく“スパゲティ”でもなく“スパゲッティー”という店名にジャンクの心意気を感じる。

 

本場イタリアにパスタを食べるだけに旅行したこともある私である。ジェノベーゼのためにジェノバに行き、ボロネーゼのためにボローニャに行き、ローマならではの本場のカルボナーラを味わい、トスカーナ地方ではポルチーニのパスタを食べまくった。

 

いっぱしのウンチクも語れるが、「パンチョ」のスパゲッティーはあくまでニッポンの麺料理である。イタリアのパスタと同列に語るのは野暮の極みだ。昭和の少年たちが旨を熱くしたニッポンのスパゲッティー様である。

 

空腹だったから単純にウマかった。「これでいいのかもしれない」と一人つぶやいたほどだ。時々自分でそれっぽいパスタを作るのだが、イタリアンに寄せようとする無駄な努力のせいで中途半端な仕上がりになることもある。

 

そう遠からずにオジサマからオジイチャマというステージに昇格する私だ。パスタやスパゲティは卒業して「スパゲッティー」へと原点回帰してもいい頃なのかもしれない。

 



マックも好きだが、バーガーキングも大好きだ。こちらもウーバーで注文する。私の食べ方はフシダラ過ぎるので店では食べられない。石が飛んでくるか出禁になると思う。

 

バーガーキングのウリは迫力のサイズである。マックより遥かにデカい。ワッパーというシリーズはいつも私のジャンク魂と少年の心を呼び起こす。

 

しかし、ワッパーシリーズには結構な種類があって欲張りな私は3つぐらいは味わいたくなる。かといってあのサイズを何個も完食するのは無理だ。必然的にパンの大半を捨てるという暴挙に出る。

 



パンが口に入らないように変な口の開けかたをして中身だけをかじる。うまく説明できないがそのせいでいつも顔面がソースまみれになる。時々ちょっとだけパンもかじってみる。ハンバーガーに関してはパンは脇役だ。いつもパンはほんの少しだけで充分だと痛感する。

 

とにかく人様には見せられない姿だ。家でしか出来ない食べ方である。同居する娘にも見せられないので一人の時だけの秘やかな楽しみである。

 

罰当たりな食べ方だとわかって入るが、パンを抜くとカロリー的にもかなり救われるはずだ。デリバリーのLサイズのデカいピザだって生地をまったく食べずに具とチーズだけをフォークで剥がして食べればペロッと一人で食べ切れてしまう。

 

間違いなく罰当たりではあるが体重管理という点では案外悪くない。SDGsだとかフードロス問題などを考えればヒドい話だが、体重が増えまくって私が排出する二酸化炭素が増えてしまうのも地球には良くない。

 

せめて残したパンやピザ生地をムダにしない活用法を検討しようと思う。

 

 

 

 

 

0 件のコメント: