先日、娘とデートをした。渋谷で買物に付き合ったのだが、ちょっと値の張る靴も買ってしまった。
「良い靴は素敵な場所に連れてってくれるんだぞ」という父親のクサいセリフなど耳に入っていないようだったが、嬉しそうだったから良しとしよう。
靴好きを自認する私としては自分の娘の靴も気になる。ヘタレた靴を履いていたら文句を言いたくなる。
「靴は人格そのものだぞ」。そんなこと言われたって中学生の娘にはピンとこないだろうが、一応、洗脳である。
「ベッドと椅子と靴は良いものにこだわれ」。イギリス人だかフランス人の言い伝えらしい。
確かにすべてが暮らしを支える土台みたいなものだ。大事にすることは大人の嗜みだ。
男の靴は女性靴と違ってバラエティに富まない分、奥深さがあるように思う。ファッションというより生き様を表すみたいなイメージがある。大げさだろうか。
ひも靴のひもを締め上げた時のキリリとした気分、靴べらを介してかかとがすっぽりと靴に包まれた瞬間の安心感など何気なく五感を刺激してくれる。
靴磨きも楽しい。時々、無心になって汗だくになりながらピカピカにしたくなる。
手入れをサボってヨレていた靴が磨き上げることで甦ってくる感じが堪らない。妙に暗示的だと思う。
人としてヨレてきている自分も、時々丁寧に磨きあげることで独特な風合いとともに甦るのではと思えてくる。
たまにアホな女性から「奥様に大事にされてるんですね」と言われる。オイオイである。後ろ回し蹴りを繰り出したくなる。
こちらの靴をチェックするのは良い心掛けだが、「綺麗な靴イコール奥さんの手柄」というトンチンカンな発想は困ったものだ。
実際、世の男性の中でも「まあまあ」ではなく「かなり」靴がピカピカな男は、たいてい自分で靴を磨いている。そんなもんである。
靴に興味が無い人はヨレた靴を平気で履いていることが多い。ネクタイやスーツにはそれなりに気を遣う人でも靴だけがオヨヨだったりする。
駅や電車の中でスーツ姿の人達の靴を眺めてみると、思った以上に「残念」な人が多い。その一方、丁寧に手入れされた靴を履いている人を見ると、その人が立派に見える。
きっと奥さんに大事にされているんだろう・・・・!?。
さて、予定や気分に合わせてその日の靴を選んでいるが、「どうでもいい日」には「ダメ靴」を選ぶ習慣がある。
客人の予定もなく、夜の席もなく、デートっぽい話もなく、ヘタすればまっすぐ帰宅するような日が「どうでもいい日」である。
そんな日は、私にとって二軍や三軍扱いのダメ靴の出番である。ダメ靴という呼び方は靴に対して申し訳ないのだが、ビミョーなサイズ感や色合い、形状などさまざま理由で二軍、三軍に落ちてしまった哀れな靴である。
ダメ靴と呼ばれながらも私を支える土台として踏ん張ってくれている。楽しい場所、素敵な場所には履いていってもらえず、ダルそうに歩くのに付き合わされる。おまけに一軍には上がれない。
当然、綺麗に磨く機会もほとんどなかったのだが、先日、突然、ダメ靴達が気の毒になり、ピカピカに磨いてみた。
元々がそこそこの革質の靴だったので、思った以上に綺麗に甦った。磨きながら靴が喜んでいた。私としてもそれまでの不義理を詫びたい気持ちになった。
やはり暗示的である。決めつけてしまうことの愚かさを教わったような感じだ。思い込みや決めつけ、固定観念などは自分が思っているよりモロい。
気に入らないことがあっても、その判断は絶対ではない。後になって思い直すこともある。心変わりを恥などと思わず、臨機応変に受け止めればいいと思う。
なんだか説教くさい書きぶりになってしまった。
ということで、近いうちにダメ靴を素敵な場所に連れて行ってやろうと思う。
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